甲府城は武田家の滅亡後に甲府に建てられた近代城郭で、家康の関東移封後に甲斐に入った秀吉の家臣たちによって築城されたと考えられる。本丸および周辺の曲輪とその周囲の石垣、一部の水堀がよく残るが、建造物は全て廃城時に取り壊された。城内をJRの線路が横断している。近年、門や櫓などが古文書に基づき復元(一部模擬)されている。本丸には天守台が残るも、天守があったことを示す古文書などは存在しない(天守に葺かれていたと思われる金箔瓦や鯱瓦などの状況証拠のみ)。
<基本データ>
●名称: 甲府城 (別名 舞鶴城)
●所在: 山梨県甲府市 (マップ)
●築主: 羽柴秀勝 -> 加藤光泰 -> 浅野長政 ?
●築城: 1590年 (天正18年) 頃
●遺構: 天守台、石垣、堀、曲輪
●関連: 甲府市観光情報、甲府城御案内、甲府城研究室
<訪問記>
甲府城跡はJR甲府駅のすぐ南に「舞鶴城公園」として整備されている。結構ひろく、入口もあちこちにあり(たぶん5箇所)、いつものようにサクッと一筆書きで一周するのは大変そうだ。外周を回って別の入口から入りなおしたりしながら、なんとか全部見たい。
まずは城域南西部分にある、鍛冶曲輪門へ。商店街と庁舎の建ち並ぶ都会の中にいきなり現れる石垣の城壁と立派な門。都心に残る城跡にしてはとても整備が行き届いているようだ。まずは門の前に建つ全体マップを見て散策ルートを考えよう。ちなみに、今ある門や城壁の類はすべて再建で、江戸時代から残るのは石垣(改変も結構あるという)と極一部の内堀のみとのこと。
鍛冶曲輪門前の案内図。甲府城の別名は舞鶴城ということで、城域は舞鶴城公園として整備公開されている。左が北。JR甲府駅は北西(地図の左下)にあたり、本丸およびその周囲の曲輪がいくつか残っているようだ。内堀は南を除いて埋められ道路になった。また北側の曲輪はJR線路の敷設により分断されたそうで、線路脇の石垣は分断時に新たに造営された模擬石垣とのこと。
今いる場所は地図右下(南西)の門前。まずはここから入り、城の西半分(二ノ丸、天守曲輪、本丸、天守台)を中心に見てから一旦近くの門から外に出て、外壁を見ながら南の堀の方へ廻り、橋を渡って今度は東半分を順に見て回るルートを取ろう。
では鍛冶曲輪門へ。門の外側は楽屋曲輪、内側は鍛冶曲輪で、2つの曲輪を結ぶ門とのこと。楽屋曲輪は現在は開発され、県庁関連の建物が建っている。ちなみに、城跡のある舞鶴城公園は常時開放とのこと。
鍛冶曲輪門 内側より。門の正面の柱(鏡柱)と、内側の柱(控柱)を覆う大きな屋根を持つ「薬医門(やくいもん)」だ。
鍛冶曲輪門から内部の鍛冶曲輪へ。道は右に曲っている。石垣は表面を叩いて平らに整えた「打込み接ぎ」方式。
城域はこのようにきれいな土塀で廻りを囲まれている。地面はコンクリート等ですっかり覆われている。パンフによると、国指定史跡ではなく県指定史跡のため史跡整備ではなく都市公園として整備された、とあることから、コンクリート化・バリアフリー化されてしまったのかもしれない。国指定史跡にするには既にあちこち手を入れすぎてしまっていたのだろうか。
ちなみによく出来たパンフレット(A4カラー見開き8P)は現地でたくさん配布されているが、山梨県HPにもPDFで配布されている。いいね。ダウンロードはコチラ。
気を取り直して城跡散策へ。鍛冶曲輪から一段上の二ノ丸へあがる石段とその横の高石垣。工事具材が邪魔だが、目を見張る立派な石垣だ。
石垣アップ。隅石は角がビシッとそろえられ、細かく割って削って形を整えたような跡が残る。反りもいい感じ。
石段をあがると、そこから鍛冶曲輪の中央までなだらかな坂がずっと続いている。パンフ掲載の甲府城絵図にはこのスロープは描かれていない(天守曲輪の下はそのまま鍛冶曲輪)、恐らく都市公園としての整備でバリアフリー化(なんと本丸まで階段なしで上がる事が可能)に伴い出来た道ではないだろうか。目の前の高石垣の上は「天守曲輪」、本丸の一段下にあたる。しかしスロープ造営に伴いどこまでこの石垣も改変されたかは分からない。
天守曲輪の高石垣。この微妙な折れ曲がりは、一般的には石垣に張り付いた敵兵を横から射るための「横矢掛け」という設備。
天守曲輪の石垣はずっと奥まで続いている。犬走りのような部分もあるが、このスロープ自体が近年造営のため、この犬走り自体も眉唾。
スロープの端っこあたりから見上げた天守曲輪 高石垣。隅石の見事な揃い具合、奥の石垣の反り具合がよく分かる。やはり石垣は角から見ないと。
しかしよく整った石垣(特に打込み接ぎ)は、ちょっと下から平面度合いがよく分かる角度で見上げるのもイイ。こんな感じ。石はマチマチだけど、ビシッとそろった平面。隙間が結構合いてるので手を掛けて登ろうとする輩は、適度に埋め込まれた詰石に手を掛けてしまい簡単に外れて落ちる仕組み。
そして横矢掛け部分。特に谷折り部分の絶妙な石の配置がステキ。
さて十分に天守曲輪の高石垣を愛でたあとは、スロープの最上段から右に曲がって二ノ丸・天守曲輪方面へ向かおう。
ここには往時、坂下門があったようだ。坂とは、この上から天守曲輪へ上がるための大きな坂道(石階段)のことを指していて、その坂の下にあるから坂下門。しかし地面がこのとおり均されてしまっているので、どこに門があったのか(礎石)分からない。
坂下門あたりから本丸を見上げると、天を突く塔が目につく。めちゃくちゃ高いので城のどこからでも見えてしまうあの塔、一見 城跡によくある「忠魂碑」(戦争で亡くなった方の英霊を祀る碑)かと思われたが…詳細は後ほど。
二ノ丸へ。二ノ丸は明治以降いろいろ建物が建てられた経緯があり、議員会館などもあったようだ。今は写真の武道館(武徳殿)が建つ。昭和3年建造。この武徳館の右脇の細い通路を通ると本丸の向こう側に出られるが、今回はここから右へ進んで坂(石段)を上がって天守曲輪へ向かう。
坂下門跡の上にある、天守曲輪へ通じる長い石段。石段は見た感じ近年の整備だろう、昔は文字通り 坂道だったと思われる。石段の左上の黄色い石垣は野面積み。秀吉統治時代の初代築城時の石垣かもしれない。
そして天守曲輪へ。天守曲輪はパンフによると本丸南下側に横に長く広がった曲輪で、本丸には坂の上すぐにある「鉄門(くろがねもん)」から入るようだ。木で出来た門の扉や柱に、火矢から守るために鉄板を貼り付けたものを「鉄門」と呼ぶ。銅板を貼り付けると「銅門(あかがねもん)」だ(例:小田原城)。
鉄門 説明板。鉄門の説明板というより復元整備事業の説明板と言う感じ。従来工法で、現存礎石や石垣に残る梁跡を使用し、古写真等に残る姿のまま、復元したとのこと。
鉄門を上がると本丸。まずは気になる本丸南端にあるタワーを見る。ペンシルロケットみたいなタワーだ。下にタワー設置時の説明板があった。
タワー説明板。忠魂碑ではなく「謝恩碑」となっている。大正9年建造。明治44年に皇室保有の山林を明治天皇から県へ頂いたことを記念して、その山から採れた花崗岩で造ったとのこと。古代エジプトのオベリスクと言う塔を形どっているとか(なんで??)。当時、乱伐で緑が少なかった山梨の山々は長雨が降ると濁流が発生し麓が洪水になることも多く、明治天皇が御料地を県に下して森林復活の基にした、という。当時の明治天皇の英断とそれに対する住民の感謝の気持ちはよく分かるが、日本の古代建築の跡地によりによってエジプト風の塔を建てるとは…。
気を取り直して(?)、本丸へ。甲府城は一条小山という丘陵に建てられた平山城なのがよく分かる盛り上がりっぷり…と思ったら昭和初期の古写真(参考HP)を見ると本丸は平面で、なんと中央に巨大な噴水が作られていた。しかも明治36年には模擬天守まで建っていたらしい(撤去時期不明)。その後噴水などは撤去され、色々と埋め立てたので丘のように盛り上がっているのだろうか。奥に見える立派な石垣は天守台。しかし天守の姿を記した史料は見つかっておらず、そもそも建っていたのか(台だけだった城も多い)すら不明なのが実情。豊臣政権時代に天守によく使われていた金箔瓦が周辺から出土しており、恐らくその頃に天守が建てられ、金箔瓦がはられていたのでは…と考えられている。
天守台の隅石。この堂々たる足の長さ。しかしこの天守台も、後述する天守台横のスロープ造営のために改変されているという…!
天守台 説明板。階段を半分あがった地下石蔵部分にある。
続いて天守台に登って周辺の眺望や天守台自体を見てみよう。
>> 甲府城 [2/5] へ続く。<<
訪問時期:2014年7月
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