躑躅ヶ崎館(武田氏館) [前編] 本丸跡は武田神社の境内に

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は甲斐武田氏の拠点であった居館跡で、武田信玄の時代までここ躑躅ヶ崎館と詰城の要害山城が政庁および甲斐支配の中心であった。国史跡としては「武田氏館跡」として登録されている。武田氏滅亡後は織田家臣の河尻秀隆、本能寺後は家康の甲斐進出により支配されたが、南に甲府城が新たに築かれ館は廃された。館跡は武田神社となり、神社境内の東側が発掘調査され、土塁や堀などが一部復元されている。神社敷地内には家康時代の天守台跡が残るが立入禁止。

躑躅ヶ崎館<基本データ>
●名称: 躑躅ヶ崎館 (別名 武田氏館跡)
●所在: 山梨県甲府市 (マップ)
●築主: 武田信虎 (信玄の父)
●築城: 1519年
●遺構: 石垣、水堀、虎口、井戸跡 等
●関連: 甲府市観光開発科HP甲府市HP


<訪問記>

武田神社の散策は、神社西側の駐車場からスタート。

tsutsuji-4185駐車場の前は現存の堀。躑躅ヶ崎館は3つの曲輪(西曲輪、中曲輪、東曲輪)が横に並ぶ形になっており、堀の向こう側に見えているのは西曲輪にあたる。

tsutsuji-4190南側へぐるっと回りながら堀を渡る橋を目指す。西曲輪の土塁はキレイに整形され、水際の部分は石垣で保護された「腰巻石垣」となっている。往時からあったものかどうかは不明。

tsutsuji-4191よく見ると、上の方にも石積みが見える。その上には土塁が見えるのでその土塁の防護用石垣か。この石垣を曲輪の上から見に行くと斜面を滑って堀に落ちてしまいそうだ。

tsutsuji-4192西曲輪へは石橋が築かれていた。縄張図によると当時から橋はあったようだ(今はコンクリートが敷かれている)。そして堀の中には色とりどりの鯉。

tsutsuji-4193堀だが今は池扱い。神様の御池のため釣り禁止。その他 城跡の池でも国の史跡になっている場合は基本 魚釣り禁止。

tsutsuji-4195ここからが中曲輪。西曲輪と中曲輪の間は堀で隔てられている。右奥に見える赤い橋が、武田神社の参拝ルートになる。

tsutsuji-4199橋の近くには古絵図(大正7年に発行された甲府略志)と現代地図との比較図面あり。非常に細かく描き込まれているので現地でじっくり見よう。見比べてみたところ、一部の橋が新設されたり水堀が埋め立てられたりしているが、館跡はほぼ武田神社の境内となり、そのまま保存されていることがわかった。ちなみに古絵図のタイトル「古府之図」は、府=府中(旧国の中心都市)で、勝頼が韮崎に「新府」として城を建てたためここ甲府は当時「古府」(古い中心都市)と呼ばれていたことに由来する。なお「甲府」は甲斐の府中という意味の他に、古府→こふ→こうふ、となったという説がある(ガイド氏談)。

tsutsuji-4200古絵図の躑躅ヶ崎館部分アップ。西曲輪の南側にも梅翁曲輪という堀で囲まれたエリアがあったようだが、この部分は堀が埋められ道路になってしまったようだ。また、現在地の少し右側から直接中曲輪に入る赤い橋が架けられているが、古絵図には無いことも分かる。当時の大手門は東側に架かる橋だったとのこと。

tsutsuji-4202武田神社 由緒書。御祭神は武田晴信命、神になった信玄公だ。大正天皇の即位に際して信玄公に従三位(じゅうさんみ)が贈られたことをきっかけに、館跡が武田神社として整備されたそうだ。

tsutsuji-4204a-4267こちらが武田神社 入口。階段の左右に立派な石垣が積み上げられているが、当時は先ほど見たとおりここに入口は無かったので、もともとは横一列だった石垣の一部を壊したか、あるいは神社造営に伴い新築したか、だろう。

tsutsuji-4206武田神社 全図。中央拝殿本殿の左上に天守台らしき石積みが見える。西曲輪は神社の建物等はなく史跡公園になっているようだ。そして東側の橋は旧大手門、その外側は大手門東史跡公園として整備されているようだ。

tsutsuji-4210国の史跡としては躑躅ヶ崎館ではなく武田氏館跡として登録されたため、史蹟碑は武田氏館跡。日本100名城も「武田氏館」。

tsutsuji-4210a-4208文化庁の武田氏館跡 説明板。

tsutsuji-4211武田神社 石鳥居。

tsutsuji-4212宝物館では訪問時、武田信玄といえば風林火山ということで、動かざること山の如しの旗(実物)が展示されているそうだ。この漢文は信玄オリジナルではなく孫子の兵法が出典。あとで宝物館にも行ってみよう。

tsutsuji-4213鳥居を越えて境内へ。静かな雰囲気。

tsutsuji-4214この鳥居の向こうに見えるのが武田神社 拝殿。

tsutsuji-4215立派な武田神社拝殿。茅葺屋根に軒唐破風の立派な建物。鬼瓦、賽銭箱などあちこちに武田菱が刻まれている。

tsutsuji-4216お参りを済ませてから、拝殿の東側にある宝物殿へ。この「宝物殿」という看板の裏側に、武田氏時代の縄張図が描いてあるので見逃さないようにしよう。

tsutsuji-4217a-4228看板の裏の縄張図。西曲輪は堀で区切られた単独の島だが、中曲輪(本丸)と東曲輪はくっついていた(土塁で区切られていた?)ようだ。堀、土塁、縄張りはほぼ現存するも、建物は武田氏滅亡後に家康による改修があったこともあり、よくわからないようだ。

tsutsuji-4220宝物殿の中へ。宝物殿は基本撮影禁止だが、この信玄公像のみ撮影OKだった。この左側に風林火山の旗や毘沙門天の旗(上杉謙信)が飾ってあった。その他、刀剣、甲冑、城模型など。文化財以外のジオラマ等はぜひ写真撮影OKにして頂きたい。100名城スタンプも宝物殿の中。

tsutsuji-4227a-4257宝物殿から更に東へ。当時の大手門の跡は、今も大手門跡として整備されていた。これは大手門跡の外から見返した図。

tsutsuji-4228a-4259大手門の土塁。石積みで保護され大きく土塁が盛り上げられている。

tsutsuji-4229大手門跡の外側には堀が回らされていたが、今は水が抜かれ薬研堀のようになっている。それでもかなりの深さだった。

続いて大手門から東へ抜けたところにある「大手門東史跡公園」を見に行ってみよう。

>> 躑躅ヶ崎館 [中編] へ続く。<<

訪問時期:2014年7月
– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!

このブログは果たして何位でしょうか? (=゚ω゚)ノ

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中