新府城 [中編] 本丸北側に祀られる武田勝頼公霊社へお参り。

新府城新府城 [前編] の続きです。

本丸跡にある藤武稲荷神社の参道である数百段の石段をあがって城跡へ。石段はキツイ人向けには、帯曲輪跡などを利用した緩やかな(距離は長い)「乙女坂」も造られているのが面白い。本丸跡へ到着。


<訪問記>

shinpu-4074a-4110新府城 本丸跡へ入ったところ正面にある説明板類をまずは見てみよう。2つある。裏側にも注意。

shinpu-4075新府城 往時の縄張図。非常に分かりやすい図だが今どこか描いてないのが玉に瑕。今は中央上部の本丸の右のほう。建物は一切残っていないが、曲輪、土塁は非常によく残っている、とのこと。水堀はほとんど埋め立てられて今は残っていない。本丸まで登ってきた長い石段は、本丸から稲荷曲輪の下部を通って更に下の帯曲輪を抜けるルートで、往時には無かった道なので描かれていない。

shinpu-4076新府城跡 説明板。歴史よりも構造について詳しく説明がなされている。

shinpu-4077最初に見たカラーの縄張図看板の裏側に、説明文および武田氏系図が描かれているので見逃さないようにしよう。

shinpu-4080本丸跡は広い。まずは説明板の横の道を奥へ進んでみる。右側のブロック塀は神社。

shinpu-4082武田勝頼公霊社。右側の説明板によると、武田氏滅亡後に当地方民が恩徳を追慕し石祠を建立し勝頼公の心霊を祀ったとのこと。1684年建立。「勝頼公420年祭」の標柱も見える。武田氏滅亡は本能寺と同じ1582年なので、2002年か。

shinpu-4084勝頼公霊社の横には、武田家重臣たちの霊位が祀られていた。一番手前の武田兵庫頭信実は、長篠城を巡る設楽原の戦いで戦死した。

shinpu-4086手前には、その長篠〜設楽原で亡くなった将士の分骨之碑が建っていた。

shinpu-4087続いて霊社左側。こちらにも錚々たる武田家名将勇士たちの霊位。

shinpu-4090霊社の奥は北側の堀の上部にあたる。大量に木が生えているあたりの下がちょうど堀跡に当たる。

shinpu-4094巨大な石碑。甲斐国主武田氏四百年追遠の碑と題し、ここ韮崎市は戦国大名 武田氏が勃興・最盛・終末期を迎えた場所であることがつらつらと書かれている。

shinpu-4096石碑あたりから本丸内部を見る。かなり広い。

shinpu-4100少し進むと「新府城本丸跡」という立派な標柱が建っていた。再度には普請奉行 真田昌幸、城主 武田勝頼、の記載アリ。

shinpu-4101a-4113本丸跡中央あたりから標柱、石碑方面(北)を見る。

shinpu-4104本丸跡西側にある「蔀(しとみ)の構(かまえ)」。大きな穴の横に立っているので、この穴が蔀の構なのかと思ってしまうが、蔀の構とは植え込みや土塁を本丸外周に造り、外から本丸内部が見えないようにしていた天然の壁ともいうべき設備、とのこと。昔は山城は木々を伐採していたので植え込みや木を植えるとそれに名前が付くほどのものだったようだ。今となっては自然に生えた草木がぼうぼうなので、まさに400年かけて造られた「天然の蔀の構」という感じか。てか全ての山城が蔀の構 状態。

shinpu-4105本丸周囲の土塁を見て回る。結構しっかり残っている。とはいえ往時はもっとしっかり高さや角度があっただろう。

shinpu-4108本丸南東部分には石積みで四角く区切られたスペースもあったが詳細不明。その奥には本丸をぐるりと囲む土塁跡が奥まで続く。

shinpu-4109これだけ離れててもしっかり分かる本丸土塁。

shinpu-4115さて本丸から西側にある虎口を抜けて二ノ丸方面へ向かう。最初に見た縄張図によると、この先は二ノ丸〜馬出し〜三ノ丸を経て、大手門があった。

>> 新府城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2014年7月
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