賤ヶ岳古戦場 [後編] “連戦で疲弊する秀吉方武将”という珍像あり

shizugatake_cover賤ヶ岳古戦場 [前編] の続きです。かつての激戦地も、今はリフトで楽々ハイキングコースとなっている。お城ではなく戦に備えた山頂の砦の1つだが、土塁や虎口や堀切など砦の基礎工事の跡がしっかり残っているという。前半はリフトから約10分の緩やかな登山を経て山頂へ到着したところまで。後半で砦の遺構と眺望を見て回る。


<訪問記>

shizugatake-3817a-3854s賤ヶ岳山頂へ。削平地がシッカリ残っていて、木々も適度に伐採され、整備されている。説明板やら石碑やらがたくさん立っているようだ。順に見ていこう。

shizugatake-3818入口付近にあった「史蹟 賤ヶ嶽」石碑。戦前に建てられたものだ。

shizugatake-3819東側は展望台のようになっていて、木之本の平野部が一望。史蹟(史跡)だけでなく、琵琶湖八景の1つ「新雪賤ヶ岳の大観」としても登録されているようだ。他には彦根城、竹生島、瀬田など。

shizugatake-3821賤ヶ岳砦跡 縄張図も設置されていた。これは助かる。勝家vs秀吉の賤ヶ岳合戦の前にもここに既に城(砦)はあったようで、天正元年(1573年) の浅井朝倉vs織田軍の合戦の際にもここに城があった記録があるという。遺構としては、山頂の3つの曲輪のほか、堀切、土橋、枡形虎口などがあるようだ。公園化かつ430年前の土の城なのであまり期待せず、縄張図を参考に見に行こう。右が北。

shizugatake-3822主郭を少し北へ進むと、史蹟 賤ヶ嶽 の標柱とともに、うなだれたサムライ?の銅像と、百科事典の形をした説明板があった。

shizugatake-3824百科事典型の説明板。内容は前半が小説風、後半がエッセイ風で、要はこの銅像の製作者がどういう想いでこの銅像を作ったかを記したもののようだ。タイトルは「戦のあと」。場面は秀吉軍が賤ヶ岳近辺での戦に勝ち、柴田軍が撤退したところからスタート。必死の戦が終わると、ひとかどの武将であっても、厳しくて哀しい戦の現実に直面し、戦に赴き続けねばならない己の宿命を想い、勝利方であっても手放しで喜んでいたのではないだろうという考えのもと、このような姿の銅像を造ったとのこと。おもしろい。

shizugatake-3825山城 三角点シリーズ。賤ヶ岳 三等三角点。標高421m。

shizugatake-3826s三角点のあたりから、主郭を見返す。正面が最初に見た石碑、右側が余呉湖、左側のベンチの奥に武将の像がある。

shizugatake-3827s三角点のあたりから奥は、北郭になっている。一段低くなっているようだ。

shizugatake-3828北郭の最北端は虎口になっている。少し降りてみよう。

shizugatake-3829左右の土塁と、正面の直角に曲がる道がはっきりと分かる。

shizugatake-3831下から虎口を見上げたほうが立体加減が分かる。往時はもっとガッツリ土塁が積上げられていただろう。復元して欲しい!

shizugatake-3837主郭へ戻る。主郭の西側(余呉湖側)にある巨大な賤ヶ岳周辺地図。賤ヶ岳は中央の余呉湖のすぐ下。赤凸が秀吉軍陣地、白凸が柴田軍陣地。互いが木之本に対峙し陣地を築き始めたのは3月頭だが、実際に大規模な戦闘が起きたのはその1ヶ月半後の4月20日。秀吉が岐阜城の織田信孝を攻めるべく木之本を発った直後、柴田軍の佐久間盛政が大岩山砦(余呉湖の右側)に居た秀吉軍の中川清秀を攻め、これを撃破。そこから盛政の怒濤の侵攻が始まる。深入りする盛政に対し、勝家は再三退却して立て直すよう命令するがこれを無視。そして賤ヶ岳砦まで侵攻したとき、岐阜に向かったはずの秀吉軍本隊が戻ってきて激戦となり、連戦で疲れていた盛政軍は敗走。前田利家の撤退もあり、勝家軍は総崩れとなって居城 北之庄城へと戻っていった。これが4月21日。有名な賤ヶ岳の合戦は実質わずか2日間の出来事だった。

shizugatake-3838巨大な周辺地図の下に、佐久間盛政の説明板がくっつけられていた。佐久間盛政は柴田軍の勇将で、賤ヶ岳の戦いで深追いしすぎて総崩れとなり柴田軍の敗戦のキッカケを作ったとされている。しかしその説は江戸時代の作であり、実際はどうだったか信ぴょう性には疑問が残るところ、とのこと。また秀吉はその佐久間盛政の勇猛さに惚れ込んで、敗戦後に捕らえた際、味方になるように説得するも忠誠厚く寝返らなかったので、なくなく処刑したという話も残っている。

shizugatake-3840地面に設置されていた、古い木の説明板。

shizugatake-3842木の説明板の向こうには、余呉湖。最初に攻められた中川清秀は、余呉湖の東側、この写真の右前ぐらいに陣を敷いていた。そこからこの賤ヶ岳まで、佐久間盛政は一気に攻め立てた。

shizugatake-3855賤ヶ岳山頂の展望休憩所の横に、下に降りる道がある。縄張図によると、この下に堀切と土橋が残るようだ。降りてみる。

shizugatake-3857結構急な坂道を降りていく。

shizugatake-3858立派な土橋! 土橋とはその名の通り土の橋で、尾根に垂直に深く掘った堀切を渡るための細い土の道。木の橋と違って緊急時に落とすことは出来ないが、大軍が押し寄せても少しずつしか渡れないので敵の勢いを削ぐ事ができると同時に、橋の上の敵を狙い撃ちすることも出来る。

shizugatake-3860土橋の上から堀切を見下ろす。見事なV字谷。往時はもちろん、もっと深さがあっただろう。

shizugatake-3861a-3848上へ戻ってきた。降りようとすると、もう1つの標柱を発見。七本槍古戦場賤ヶ嶽と書かれている。その向こうには、虎口の跡のような土塁の盛り上がりも見られる。

shizugatake-3861b-3850七本槍古戦場賤ヶ嶽の標柱の右側は、琵琶湖の北端を見下ろす眺望スペースになっている。

shizugatake-3862山頂からの琵琶湖の眺望。左の1本高い木の奥にうっすら見える小さな島は、竹生島か。

秀吉がその最大のライバルだった柴田勝家一派を滅ぼした賤ヶ岳古戦場。かつての激戦地はロープウェイに展望台にと公園化されているが、それでも堀切や土橋、虎口、曲輪といった当時の砦の跡がはっきり分かる遺構が残る。これだけを目的にくると肩透かしだが、アクセスも簡単で短時間で見て回れるので、玄蕃尾城跡や小谷城跡など近隣の巨大山城を訪問した際のサブ訪問地としては最適かと。

訪問時期:2014年6月

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