伊勢亀山城 [中編] 現存多聞櫓が乗る天守台高石垣を下から見る

伊勢亀山城伊勢亀山城 [前編] の続きです。

前編では、亀山公園の歴博前からスタートし、歴博前の石坂門跡、亀山古城跡、復元された外濠跡、家老長屋門、そして旧東海道沿いに広がる亀山宿跡を探索した。中編では続いて旧東海道沿いの寺に移築された二ノ丸御殿を訪ねる。


<訪問記>

isekame-3313旧東海道 亀山宿にある遍照寺へ。亀山城 二の丸御殿を移築したという本堂を見学しよう。

isekame-3314遍照寺の文化財 説明板。鎌倉時代に造られた仏像三体が伝わるという。そして目的の本堂は説明板の最後に記載してある。

isekame-3315鐘楼門。こちらもかなり年季の入った立派な門だ。向かって右側の鯱瓦が欠けてしまっている。門の向こうは下り坂になっていて、坂の下に本堂があるという少し変わった配置になっている。

isekame-3317坂の下にある本堂。こちらが、旧亀山城 二の丸御殿(の玄関部分)を移築し本堂としたものと伝わる。お寺の方のお話を伺ったところ、移築に際しては天井を高くしたぐらいで、ほぼ御殿玄関をそのまま組み立て直したとのこと。亀山城では城主の居城かつ政庁だった二の丸御殿の豪華さ勇壮さがよく伝わる立派な入口だ。

isekame-3322お寺の方の御厚意により本堂の中を拝見させていただくことが出来た。お忙しい中ありがとうございます。本堂の中には、鎌倉期に造られたという3体の仏像が正面中央に鎮座していた。奥には更に古い平安時代の立像も奉納されていた。仏像は全く詳しく無いが、ご説明によると、仏像の着物部分の造形(妙にリアルで大げさな大量のヒダ)が非常に珍しいものとのことだった。写真は本堂入って正面の柱部分で、柱も釘隠しもほぼ二ノ丸御殿時代に使われていたとおりに組み立てなおしたとのこと。天井のすぐ下の細長い白漆喰壁が、移築に際して天井を高くした部分とのことで、中央の柱の白漆喰部分の一番下あたりに、元々天井板がはめられていた「ほぞ穴」の跡が左右に見られる。

isekame-3330しばらく本堂でお寺の方のお話を伺った後、パンフ等を沢山頂いて、お寺を後に。旧東海道に沿って戻り、再び多聞櫓前まで戻ってきた。このまま道路に沿って北上し、亀山城跡へ向かおう。左(多聞櫓の手前)は今は中学校のグラウンドになっているが往時は濠だった。多聞櫓の乗る石垣は元天守台でかなりの高さを誇るのだが、その前に樹木が生い茂っていてほとんど見えない。こちらの角度から石垣を見たい場合は冬に来るべし。(今回の訪問は6月) そして古絵図によるとこのあたりは「石坂門」跡にあたるようだが、特に説明板等は見当たらなかった。

isekame-3333道路を渡って多聞櫓の真横あたりまで来た。生い茂る背の高い木々の隙間から、立派な石垣と櫓が見え隠れしている。見づらい。石垣はかなり角度が緩やかで、反りは無いようだ。

isekame-3335多聞櫓の奥へ行くと、史跡 亀山城趾の石碑が立つ。史跡碑の台座にも「旧跡」なんて彫ってある。なおこのあたりは古絵図によると「御金蔵」跡とのこと。石碑横の低い石垣台が、蔵跡?

isekame-3336a-3347伊勢亀山城 説明板。丹波と伊勢の「亀山違い」で堀尾忠晴が天守を誤って取り壊した話は「真偽の程は定かではない」と書いてある。伊勢亀山に関する古文書としては、説明板に何度か出てくる「九々五集 (くくごしゅう)」が最も著名で詳細な内容が記載されているとのことだ。調べてみると「九々五集」は江戸時代に亀山領内の大庄屋 内田権四郎昌克が編纂した文献だが、天守の具体的構造などを記した文章はなく、今だに詳細が分からないとのこと。

isekame-3338史跡碑あたりから天守台石垣および多聞櫓を見る。やはり上からでは木々が邪魔をしてよく見えない。この真下に石段があり、石垣の下ノ段まで降りられるので、降りてみよう。

isekame-3341石垣の下へ。木々の隙間から、何とかギリギリ石垣と多聞櫓をセットで見られるスペースがあった。伊勢亀山城は冬場に来るのが正解か。石垣は反りが無く角度も緩やかで、比較的丸みを帯びた(神戸城ほどではないが)石が積上げられている。

isekame-3344角度を変えて。多聞櫓は元々 江戸時代はこの白漆喰の壁だったが、近年いつぞやの補修工事でなぜか下見板張りに変更されてしまい(参考)、江戸時代の姿とは変わってしまった。しかし平成23年から始まった補修工事で江戸時代の本来の白い姿に戻ったとのこと。

isekame-3346更に角度を変えて。このあたりが限界。

isekame-3348a-3354石段をあがって、多聞櫓の反対側に回る。多聞櫓のある石垣をのぼるための階段があった。土日祝のみ櫓の中が開放されているとのことだが、今回は残念ながら平日に訪問してしまった。櫓には入れないが、とりあえず石垣の上にあがってみよう。なお看板には「多門櫓」と表記されている。誤植かと思ったが、亀山市のHPにも同じ字で書かれている。亀山市としては多聞ではなく多門のようだ。

isekame-3351石垣の上は意外と狭く、幅いっぱいに多聞櫓が建てられていた。建ぺい率とか無い時代。しかし観光用に櫓の奥(写真を撮った位置)へ来れるよう、石垣のL字の内側部分に木橋が架けられていた。補修工事が終わったばかりの多聞櫓の白漆喰壁はとてもキレイだった。

isekame-3351a-3349多聞櫓のある石垣(旧天守台)の上から、下を見下ろす。奥の方は古い石垣のようで草ぼうぼうだった。

isekame-3359石垣を内側に降りてみる。加工していない自然石を用いた野面積みだが、積み方は斜めに積んでいく「落し積み」と呼ばれる比較的新しい方法を用いているようにも見える。

isekame-3359a-3357多聞櫓内側に立っていた石垣に関する説明板。外側は13mの高さがある「高石垣」で、今いる内側は4m。外側は古い石垣だが内側は新しく、幕末の大地震で崩壊し修復されたものではと考えられているようだ。同じく上に建つ多聞櫓も、1633年の古絵図に載っているためそれ以前の創建と考えられるものの、地震で大破したため幕末時に相当な手が加えられている可能性が高そうだ。なおこの看板でも「多門櫓」となっているが、最後の1行だけ「多聞櫓」になっている。もしかして県は多聞で市は多門?と思って県文化財HPを調べてみたら「旧亀山城多門楼」という予想外の答えだった。

isekame-3359b-3365多聞櫓の石垣のL字になった凹み部分には、井戸跡があった。井戸自体は埋められてしまっているが、井戸があったことを示す木組みのみ残る。説明板によると、1590年 岡本宗憲による築城時、元々ここに建っていた「与助鍛冶」の民家を立退きさせたことから、与助井戸と呼ばれたとのこと。

isekame-3360a-3364井戸跡の向かい側には、史蹟 明治天皇亀山行在所遺構 の石碑と小屋が建っていた。案内板によると明治13年の明治天皇 三重県下御巡幸の際に行在所(あんざいしょ)となった邸宅のうち、玉座とされた奥八畳間をここに移築保存したとのこと。

isekame-3361更に奥には江戸時代の神官 大久保家の棟門も残る。説明によると、なんと小学校の裏門としても一時期使われていたそうだ。

isekame-3363亀山公園内にある亀山神社 一の鳥居。

伊勢亀山城跡といえば現存 多聞櫓が有名だが、その他にも帯曲輪、埋門跡、濠なども僅かながらに残るようだ。後編では、城跡の奥を散策する。

>> 伊勢亀山城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2014年6月
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