江戸城は、古くは室町時代に関東を治めていた上杉氏の一派 扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし) の重臣 太田道灌(おおた どうかん) が15世紀中期に築城した。その後 台頭した後北条氏の所領となるも、秀吉の小田原征伐で後北条氏に代わり関東に入った徳川氏の居城となった。そのまま江戸開府で幕府の政庁・将軍の居城となる。天守は家康(慶長)/秀忠(元和)/家光(寛永)の頃にそれぞれ建てられたが、1657年の明暦の大火で焼失。その後 町の復興を優先するため天守再建は中止となり、幕末まで再建されなかった。明治維新後は東京城/皇城/宮城(きゅうじょう)と呼ばれる。戦後は旧江戸城の西ノ丸および吹上が皇居となり、本丸/二の丸/三の丸跡は皇居東御苑として一般公開(開苑時間のみ)。北の丸跡は公園、西の丸下跡は皇居外苑として常時公開されている。
<基本データ>
●名称: 江戸城 (別名 千代田城)
●所在: 東京都千代田区 (マップ)
●築主: 太田道灌 / 徳川家康
●築城: 1457年 / 1607年
●遺構: 天守台、現存3櫓、現存3門、石垣、堀、曲輪
●関連: 東御苑HP、皇居外苑HP、千代田区HP
<訪問記>
近代城郭 最大にして維新後は天皇の宮殿として一帯が保存活用されたことから、広大な土地が城域として今に残る。具体的には、本丸・二之丸・三之丸が東御苑としてほぼ現存、西ノ丸・吹上が皇居、北の丸・西ノ丸下が公園となり、一部非公開エリアはあるものの、見附跡や外濠なども含めると全て見て回るには1日あっても足りない。今回は半日を江戸城跡散策に割り当て、本丸・二之丸・三之丸跡の「皇居東御苑」、および西ノ丸下跡の「皇居外苑」を、大雨の中 見て回った。
江戸城散策はまず本丸・二之丸・三之丸跡として公開されている「皇居東御苑」からスタート。入口があるのは大手門前。メトロ「大手町」駅下車。交差点の名前は「大手門」だ。まだそれほど雨は降っていないが、今後の苦労を暗示するかのような分厚い雲が待機中。
交差点を渡るともうお城。巨大な内濠に架かる橋を渡ろう。
皇居東御苑のマップ。今向いている方(大手門方面)が上なので、北は右。濃い緑の部分は非公開、薄い緑の部分のみ観覧可能だ。非公開エリアの一部は、宮内庁へ観覧希望を出せば観覧することが出来るようだ。機会を作ってぜひ行ってみたい。今回は大人しく薄緑エリアを観覧しよう。
大手門向かって右側、大手濠。石垣の向こうは三之丸だが、非公開エリア。
大手門向かって左側、桔梗濠。江戸城の濠は、土橋で遮られてたエリアごとに名前が付いている。
では満を持して大手門へ。大手門は現存していたが、1923年(大正12)の関東大震災で倒壊。修復されるも、1945年(昭和20)の米軍による無差別爆撃にて焼失。現在の大手門は、1966年(昭和41)の木造復元。
大手門は、濠側の高麗門、枡形虎口、三之丸側の櫓門とで構成される。訪問時は奥の櫓門で工事をしていて、工事関係者がウロウロしていた。雨の中おつかれさまです。
高麗門を内側から。高麗門だが、屋根の下に白漆喰が塗り込められている。
大手門 枡形虎口内。左側の土塀には雁木(がんぎ=石垣に上がるための石段)が設置されている。しかし土塀には鉄砲狭間などは見当たらない…と思いきや、土塀の下の細い石垣の中央に小さな鉄砲狭間というか銃眼といったほうが良いような石垣を加工した専用の穴が開いている。さすが江戸城!
そして枡形の奥には鯱が鎮座していた。米軍無差別爆撃で燃やされた旧 大手門渡櫓の鯱だとのこと。因みにこの写真の左奥に先ほどの土塀の下の銃眼付き石垣をよく見ることが出来る。・・・一番右の銃眼は、下に雁木がないので使えないような。
旧大手門渡櫓の鯱 説明板。頭部に明暦三丁酉と刻んであり、明暦の大火で天守以下 多くの建物が焼失した後の再建で造られたものとのことだ。頭部のどこに刻んであるのか、現物があるのに確認を忘れたのが悔やまれる。
大手門渡櫓は工事中。足場の隙間から僅かに見えるが…ちなみに工事の説明板が建てられており、それによると、東日本大震災での揺れにより変形したため耐震補強工事を行うとのこと。平成27年9月完了予定。
櫓門を越えると、ゲートで管理事務所の前に誘導されるような道ができている。入苑時はこの管理事務所で管理札を預かり、退出時に札を返すという仕組み。無料。大手門以外の入苑口にも同じような事務所がある。どこから入ってどこから出てもOK。
管理事務所を越えて奥へ。このあたりは三之丸にあたるが、管理事務所からその先の二之丸入口の門までの一本道以外は残念ながら立入禁止。なおこの右側には尚蔵館という美術館があり、左側には皇宮警察本部の道場がある。訪問時は警官たちの稽古の時間だったようで、道場から威勢のいい声が聞こえてきた。お疲れ様です。
北が上になっている、分かりやすい東御苑の地図。内濠の中でグレーの部分は非公開エリア。二之丸および本丸は、ほぼ全域 観覧OKのようだ。
二之丸と三之丸を繋ぐ「下乗門」跡(三の門とも呼ばれる)。江戸城を象徴する「しっかり切り揃えられた巨石」が整然と積上げられた石垣「切込み接ぎ」にしばし感動。江戸時代はこの下乗門が大手門扱いだったようで、石垣からも風格と威厳を感じる。ちなみに古絵図によるとこの門の手前は濠(二之丸と三之丸を区切る)だったのだが、今は完全に埋め立てられていて濠だった雰囲気はない。
下乗門石垣の裏側。雁木で上にあがることができる。櫓門の左右の土塀には鉄砲狭間がずらりと並んでいたのであろう。しかしこの切り石の正確な直方体なことよ!
下乗門を越えた枡形の中には番所が建っていた。説明板によるとこれは「同心番所」で、城内に残る3つの番所のうちの最も外側にあるものとのこと。主に登城する大名の共の監視を行っていたとか。ちなみに番所の軒丸瓦の紋は三つ巴だが、一番上の鬼瓦部分のみ葵の御紋が入っている。写真では小さくて分かりづらいので拡大写真はコチラ。
下乗門 内側の石垣。先ほどの三之丸側の石垣よりずいぶん高い。大きな櫓門が建っていたのだろうか。隅石は直方体の巨石だが、中央部は色んな形に切られた石がパズルのようにピッチリ組み合わせられている。ちなみに「下乗門」ではその名の通り下乗(馬/駕籠を降りる)しなければならない場所なので、国元では一番えらい殿様でも、江戸城ではここから徒歩。しかし徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)のみ駕籠のままの登城を許されたという。
下乗門を越えて二之丸へ。広い! 左側は城内最大の番所「百人番所」、右奥に見える巨大な門跡は「中御門」。往時の登城ルートとしては、ここで百人番所で検問を受けてから、中御門を越えて本丸御殿へ向かうのだが、二之丸御殿跡が雑木林になっているのでそちらを見に行くことにする。
二之丸から見返した、下乗門。巨石が4段積上げられている。先ほど見た中御門は巨石が5段だった。
二之丸の出口を守る、百人番所。説明板によると、鉄砲百人組と呼ばれた同心百人が昼夜交代で常時詰めていたことから、このように呼ばれるとのこと。
百人番所の前で威容を誇っている中ノ門の石垣について、立派な説明板があったので掲載。よく読んでみると、石垣の説明板ではなく、石垣の修復工事(平成17〜19年)の説明板のようだ。
説明板その2。解体により明らかになった中ノ門石垣の事実。実物を見るだけではわからない、こうしたことを細かく説明してくれているのは実にありがたい。
中ノ門 石垣。隅部だけでなく、中央部もとても大きな直方体の石が積上げられている。徳川家の威厳を示した、いわゆる鏡石的なものだろう。
中ノ門の中を少し垣間見る。間口もかなり大きい。中は坂道になっていて、このまま本丸へと続いているようだ。この中は本丸からの帰りに通ることにして、一旦引き返して二之丸 北側の二之丸御殿跡から雑木林を抜けて城跡北側へ向かおう。
>> 江戸城 [2/6] へ続く。<<
訪問時期:2014年6月
– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!
このブログは果たして何位でしょうか? (=゚ω゚)ノ
素晴らしい考察に感服しました。私もお城ファンですが、このような詳細なサイト素晴らしいです。
pigmoncafeさま、コメントありがとうございます。私は研究者ではなくただの素人お城ファンに過ぎませんが、ファンにはファンの目線があり、ファンの皆さんにも楽しんでいただけるよう努めて記事を書いています。楽しんでいただけているようで私も嬉しいです。江戸城は掲載している記事は大雨のときのものですが、この後に快晴時にも再訪しているので(富士見多聞の内部見学も行いました)、いずれ書き換えたいと思っています。
先日、観光に行きました。石垣が世界中の古代遺跡と同じ組み方でしたので驚きました。巨石ひとつが最大35トン、瀬戸内海から運んだとの事…巨石と巨石の間は鐘のボルト(?)で組んであるそうで…何だかエジプトのピラミッドの様な違和感でした。どうやって岩を切り出し、運んで積み上げていったのでしょう…巨石間のボルトは、確か何処かの国の古代遺跡にもあるようです。この謎が解ければ、ピラミッドの建築方法が解明されるかもしれませんね。
コメントありがとうございます。石垣の石同士を繋ぐための金具は「千切り」と呼ばれます。石垣の内部に埋め込まれているため普段は目にすることはありませんが、金沢城など幾つかのお城では見られる場所もあります。当サイトの金沢城のページにもその写真を掲載していますので御覧くださいね。
https://akiou.wordpress.com/2014/08/09/kanazawa/