備中高松城 [前編] 秀吉の築いた堤防の極一部が残る

備中高松城は備前国から備中国(松山城)へ至る街道沿いの要衝の地にあった沼城で、1582年に秀吉が水攻めを行った場所として有名となる。毛利方の清水宗治が守る高松城を秀吉は大軍で攻めるも落城せず、毛利方の大援軍が迫る中、黒田官兵衛の進言で城を土塁で囲み川を堰き止めて水没させる「水攻め作戦」を決意。秀吉は金と人足を大量投入し僅か12日で全長4kmもの堤防を完成させた。水没する高松城を見た毛利方は和睦を決意。しかし交渉中に本能寺の変が発生、秀吉は和睦を急ぎ受諾し、城主 清水宗治の自刃・開城により戦は終わった。高松城はその後 花房氏により整備が行われたが、近く廃城となったようだ。

b-takamatsu_cover<基本データ>
●名称: 備中高松城
●所在: 岡山県岡山市(マップ
●築主: -
●築城: -
●遺構: 曲輪跡?、築堤跡、清水宗治首塚/胴塚/自刃地
●関連: 岡山市HP清水宗治HP

2014大河ドラマ「軍師官兵衛」7/6放送の第27話にて築堤〜水没〜和睦交渉など高松城水攻めがメインテーマとなり、ここ備中高松城跡が紹介されました。
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<訪問記>

b-takamatsu-9682岡山駅から吉備線(総社方面)に乗り換えて備中高松駅へ。駅から自転車で城跡へ向かう。ずっと平野が続くも、巨大な鳥居が見えてくる。城跡とは関係ないが、備中高松の名物の1つ。

b-takamatsu-9684まずは高松城を囲んだ巨大堤の一部が残る場所へ。「蛙ヶ鼻(かわずがはな) 築堤跡」。秀吉は高さ8mもの堤防を全長3km(4kmと言う説も)に渡って造り、その一番端っこがここに一部だけ残っているという。

b-takamatsu-9685水攻め史跡公園。何も無い…ように見えるが、奥の山の手前にちょっと飛び出している森?の部分が堤の一部のようだ。まずは看板を見てみよう。

b-takamatsu-9686水攻め史跡公園 案内板。堤防の一部だけでなく、発掘調査により出土した杭列や土俵の痕跡などもあるようだ。日単位で書かれた細かい歴史年表もある。

b-takamatsu-9687もう1つ、歴史解説板もあった。中国の役(織田軍による中国攻め)、高松城水攻めについて細かく記してある。また周辺の関連遺跡として、秀吉本陣跡、秀吉方武将陣地跡も残るという。

b-takamatsu-9689a-9700高松城水攻め史跡公園の碑は、公園一番奥の、堤防跡の前にあった。石碑の奥の柵に囲まれた部分は発掘調査により出土した杭列などの跡の模様。覗きこんでみよう。

b-takamatsu-9689手前が「杭列」、奥の穴が開いているところが「俵痕跡の堀上状態」とある。ここが秀吉の築いた巨大堤防の一番下の部分で、堤防がカンタンに崩れないよう、杭を打ったり俵を敷き詰めたり(一帯は当時沼地だったという)したということだろう。

b-takamatsu-9692a-9690水攻め築堤跡の調査 説明板。水田の地下1mから基底部が出てきたとのこと。積み上げていた土俵の痕跡も分かるのか。

b-takamatsu-9692では奥の現存堤へ。奥の土塁がそうだが、その手前に高松城跡高さ表示板があった。一番上が「現存築堤高 8.4m」とある。下4つの表示は、上から順に「本丸最上段高 7.0m」「本丸上段高 6.5m」「本丸中段高 6.0m」「本丸下段(二ノ丸)」とある。要は本丸最上段よりも更に1.5m高く堤防を造って沈めたということか。どれぐらいの高さの水を溜めたのだろうか。

b-takamatsu-9693築堤跡の廻りを一周。どうやら堤跡の裏側から上に上がれるようだ!

b-takamatsu-9694a-9697堤の上へ。高さ7−8mあったというが、崩れてしまった(あるいは崩された)ようで今は3−4mといったところか。

b-takamatsu-9694b-9696堤の一番奥には「史蹟 高松城趾 附水攻築堤阯」の史蹟碑がある。その横には「舊霊供養塚」が立つ。かなり古い石碑のようだが、年号部分が読み取りづらい。天保十三年?(幕末)

b-takamatsu-9695堤上には説明板も立っていたが…この汚れっぷり。誰かが一部拭き取ってくれていたのでかろうじて読めるが、これはいくらなんでも放置しすぎでは。平成22年造なのに。ここまで汚れないような素材・角度で説明板は作っていただきたく。

b-takamatsu-9702堤跡から城跡公園へと向かう。途中、例の巨大鳥居の前を通った。この道は参道で、山の上にある「最上稲荷(もがみいなり、ではなく、さいじょういなり)」の大鳥居だとか。昭和47年12月、と台座に彫ってあった。

b-takamatsu-9705城址公園の手前に「史跡 ふなはし」と書かれた小さな橋があった。高松城の内濠跡? これだけではなにか分からないので、横の看板を見てみる。

b-takamatsu-9705a-9703史跡舟橋。ここにあった南側の堀に舟を並べて浮かべ、舟橋にしていたという。攻めるときはこの上を通って兵が南へ渡り、守るときは舟を撤去して堀にするという仕組みだ。今は普通のコンクリート橋になっているが、この橋自体は関係なく、この辺りにいわゆる舟を並べた舟橋があったということか。

b-takamatsu-9708a-9750さて城址公園へ。だだっ広い感じ。入場無料。

b-takamatsu-9709高松城跡 附水攻築堤跡 説明板。

b-takamatsu-9712公園の様子。かなり広いので全景を収めることは出来ないが、こんな感じに整備された公園が続く。

b-takamatsu-9712a-9710城攻めマップと、方角とともにそちらに以前誰の陣などがあったかを示した方位盤。

b-takamatsu-9712b-9711こちらは秀吉本陣があった方向(向かいの山がそう)。写真では見えないが大鳥居の方向で、先ほどまで居た蛙ヶ鼻築堤跡は正面の山の麓にあった。

城址公園内にはほとんど高松城の遺構は残っていないものの、資料館と、城主清水宗治公を偲ぶ幾つかの史跡があるようなので後半はそれを見ていこう。

 >> 備中高松城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
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