備中松山城 [後編] 籠城用設備はあるが壁は薄かった天守

備中松山城 [中編] の続きです。二ノ丸〜本丸へと進み、本丸周囲に復元された平櫓や御門を見る。天守裏の現存二重櫓も見て、いよいよ天守へ登ろう。

<訪問記>

b_matsuyama-9233天守裏へ向かう石段の上から、本丸を見る。周囲を囲む土塀と御門、平櫓が復元されていて、まさにお城という感じ。なお往時は更に、南御門の右側にある六ノ平櫓の右奥に七ノ平櫓、右側の櫓台の上に八ノ平櫓が建っていた。

b_matsuyama-9239天守へ向かう途中に八ノ平櫓台が残る。高梁市HPによると、本来の天守の構造はこの八ノ平櫓から廊下を伝って入る「連郭式天守」だったが、昭和の大修理の際にこの八ノ平櫓の荒廃がひどく原型復元が困難だったことからやむなく切り離したとのこと。いずれはこの八ノ平櫓も復元され、往時のように連郭式の姿を見せてくれるかもしれない。

b_matsuyama-9238では、いよいよ天守へ。天守台横の付櫓から入る。

b_matsuyama-9242a-9276天守横の附櫓の中。現存天守なので土足厳禁。階段の横の看板によると、附櫓ではなく、元々つながっていた八ノ平櫓とを繋ぐための「接続廊下」とのこと。

b_matsuyama-9243a-9275天守1階。パネル展示や解体修理がなされた時に出土・外されたパーツなどが展示されている。

b_matsuyama-9249天守の構造 説明板。ここ備中松山城天守は昭和の大修理(昭和15年)と平成の大修理(平成12年)が行われている。昭和の大修理で柱や壁、床板など大部分が修復されており、平成の大修理に伴って詳細調査をした結果、北側と南側の壁が創建時のまま残っていることが判明したとのこと。またその構造から、銃弾等からの防衛のため分厚く塗られるはずの壁が、中に空洞を持つ一体化されていない薄い壁だったことも判明し、実戦を想定していない建物であることが分かったという。こんな山の上にあるのに実戦を想定していないとは衝撃の結果だ。

b_matsuyama-9250a-9245鯱瓦。備中松山城の天守および二重櫓の鯱瓦は、昭和の大修理の際に昭和製造のものに替えられてしまっており、平成の大修理の際に発掘調査を行ったものの出てこなかったので、鯱瓦のみ現存ではないとの断りがされている。なお鬼瓦は発掘調査で出土したので、それから型を起こし製造したという。左側の鯱瓦は昭和35年の修理の際に付け替えられた鯱瓦。右側は昭和15年の修理の際に付け替えられた鯱瓦。

b_matsuyama-9254天守1階の奥には一段高くなった部屋がある。看板によると「装束の間」。籠城時の城主一家の居室で、床下には石を敷いて忍びなどが侵入できないようにされているとか。落城した際は自刃する部屋となる。先ほどの説明板では壁が薄くて実戦を想定した構造ではないという結論だったが、それでも戦いが起きたら籠る部屋は用意されているということか。ここに籠る=一族自刃を覚悟、ということなのかもしれない。今は観光客がズカズカと入っているが、往時はそういう部屋なのだからおいそれとは入れない部屋だったろう。

b_matsuyama-9256また天守1階には床板をくり抜いた囲炉裏が設置されていた。籠城時の城主の食事・暖房用。戦国時代は備中国の首都としてこの城が激しい争奪戦に見舞われたことから生まれた珍しいものとのこと。

b_matsuyama-9257天守の構造(内部)説明板。南北断面図などでこの天守の構造がよく分かる。文字を読みたい方はクリックして画像を拡大。

b_matsuyama-9248天守南面に見えた出窓の内側。よく城郭で見られる武者窓(連子窓 れんじまど)で、窓の格子の隙間は細いが外側と内側が斜めに削られており、中から外はよく見えるものの、外から中は見にくいという構造になっている。今はホコリ等が入らないようガラス窓が衝立で設置してあった。

b_matsuyama-9258さて階段をあがって天守2階へ。二層二階建てなので次が最上階。

b_matsuyama-9261天守二階。曲がった大木をうまく組み合わせた梁が印象的。奥は祭壇になっていて、城の守護神として三振りの宝剣が奉納されていたとか。

b_matsuyama-9241天守を降りてきた。天守台から見下ろした本丸。往時はここは廊下が続いていて右側の櫓台の上に建っていた八ノ平櫓と連結していたことから、この角度で本丸は見られなかった。

b_matsuyama-9315下山。大手門の石垣はやはり凄い。パンフによると、大手門を降りたところに犬走りがあり、そこから搦手門方面に抜けられる構造になっているという。

b_matsuyama-9321ここが犬走りのようだ。特に観光客が通るように整備されていないのか、今はこのとおり枯れ葉が積もって通れる感じではない。石垣も苔むしまくり。逆に本丸・二ノ丸・三ノ丸の石垣はほとんど苔むしていなかったのはよく見えるように整備時に削り磨いたのだろうか?

b_matsuyama-9320 犬走りの入口に建っていた説明板。確かにこの絵図を見ると、犬走りを通って森を抜けると本丸の東の真下あたり(搦手門がこの辺にある)に出るようだ。文章を読みたい方はクリックして画像を拡大。また大手門についても、発掘調査の結果、礎石や束石、踏石、柱の太さが分かる痕跡などが見つかったそうで、復元される日も来るかもしれない。

b_matsuyama-9322下山する人の視線の方向に、城主の登城心得があった。本日の登城 大儀であった。…もはや登城の心得ではないが、気にしない。

b_matsuyama-9324そしてふいご峠Pへ帰着。最後に「またの登城 心よりお待ちいたす」。城主直々のご催促とあらばまた来ざるを得まい。

続いて高梁の城下町へ降り、少しだけ街に残る遺構を散策する。

>> 備中松山城 [高梁城下町] へ続く。<<

訪問時期:2014年3月
– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!

広告

備中松山城 [後編] 籠城用設備はあるが壁は薄かった天守” への2件のフィードバック

  1. 備中松山城は近年の整備計画でますます魅力を増してきていますでしょう?あまり宣伝もしていないのに徐々に城本来の復元へ・・・城ファンには堪えられないお城の一つです。丁寧な写真をありがとうございます。ここらはお猿の保護区にもなっているので、駐車場から本丸にかけての山道で、結構、猿と出くわしますが、この時は出会いませんでしたか? 江戸末期は平民から家老となり、備中松山藩の財政・治世を立て直した山田方谷という傑物で有名になりました。戊辰戦争時に官軍(=西軍)に対抗した越後長岡藩の河合継之助も訪ねて治世の教えを乞うたと伝わります。江戸中期、備中松山藩の騒動で、赤穂藩の大石蔵之介が城受け渡しにきたことなど案外エピソードも多いところです。良いお天気を見計らって来訪されているので、どれも写真がきれいですね。ありがとうございます。合掌

    1. 大西さま。
      コメントありがとうございます。
      このときは他に観光客も多く、常に多くの人がいたことからか、野猿は出てきませんでした。整備も良い方向で進んでいますね。この時は団体旅行の一環での登城で十分に巡りきれなかったので(奥の中世山城など)、いずれは再訪してしっかり見直したい、そんなステキな城跡でした。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中