津山城 [前編] 往時の大規模さが分かる巨大な石垣群

津山城は江戸時代の初代津山藩主 森忠政が築城した近代城郭。元々ここには室町時代に美作国守護だった山名氏の鶴山城があったが長らく廃城となっており、築城に際し当地の地名を”鶴山”から”津山”に改めた。18万石の大大名に相応しい5重天守・多数の櫓・長大な石垣を持つ大規模な城郭だったが、明治の廃城令で不要とされ建物は売却・破棄された。城跡は明治中旬に鶴山公園として整備され、平成になって備中櫓、太鼓塀などが復元された。

<基本データ>
●名称: 津山城(別名 鶴山城)
●所在: 岡山県津山市(マップ
●築主: 森忠政
●築城: 1616年(元和2年)
●遺構: 石垣、曲輪
●関連: 津山観光情報発信サイト

<訪問記>

tsuyama-8900a-9071津山城散策は城跡前にある観光センターの駐車場からスタート。目の前の石段をあがって城内へ。

tsuyama-8901石段を上がると目の前に三ノ丸周囲の巨大な石垣がずーっと続く。その前から城内に入る表門(冠木門)まで津山城跡に関する説明板などがずらりと並ぶ。見ながら予習していこう。まずは全体地図。花の見頃をテーマに描いている。やはり城跡というより花見の場所として訪れる人が多いということか。城跡全体に桜が植えられており、3月後半〜4月前半は激混みだ。

tsuyama-8904正面の三ノ丸石垣。表面を叩いたりして形を整えて積み上げる「打込ハギ」と呼ばれる方式だ。古絵図によると往時はこの上には土塀などではなく樹木が植えられていた。一番上の石が薄いので、恐らくそれらが前に飛び出して並べられ、石垣を登ってきた敵が乗り越えにくくなるという「武者返し」と呼ばれる仕掛けが施されていたのかもしれない。

tsuyama-8905森家先代実録の絵図等を参考に想像したもの、と書かれた津山城復元鳥瞰図。5重の層塔型天守に、多数の櫓と大量の石垣を持つ巨大な一大城郭だ。

tsuyama-8906津山城跡 説明板。

tsuyama-8911津山城跡 への入口、表門。奥のゲートの先でお金を払う。もともとは白い碑が建っているとおり冠木門が建っていた。この奥は三ノ丸にあたる。

tsuyama-8912a-8907入口の前に銅像発見。初代 津山藩主で、津山城を建てた 森忠政公。

tsuyama-8912b-8908森忠政公 説明板。森家は戦国時代の有名武将が目白押しで、父 森可成 (よしなり/信長の有力家臣、宇佐山城で戦死) の子が、森長可 (ながよし/長久手で家康軍と戦い戦死)、蘭丸・坊丸・力丸 (信長の小姓、本能寺で戦死)、この忠政 (津山藩主)。この像は菩提寺に伝わる木像を元にして造られたようだ。

tsuyama-8914津山城 三ノ丸。かなり広いが、今は売店等が並ぶスペースになっている。右奥に見える高石垣は二ノ丸石垣。

tsuyama-8917三ノ丸に立つ 津山城跡 説明板。現在のマップ(石垣現存状況)と、江戸時代の地図が大きく描かれているのがありがたい。三ノ丸から二ノ丸にあがる階段は城内最大規模の門”表中門”があった場所とのこと。

tsuyama-8917a-8916ここが城内最大の門 “表中門” 跡。2つの石垣をまたぐ形で二階が櫓、一階が門となる「櫓門」形式で、なんと櫓の横幅32m。大阪城や江戸城にも匹敵する規模だとか。

tsuyama-8918石段の途中は東に分岐しており、二ノ丸東曲輪(見付櫓など)へ続く道のようだ。今回はこちらへは進まず、二ノ丸へ直進。

tsuyama-8918a-9060二ノ丸へ向かう石段。左側の高石垣の上には鉄砲櫓と呼ばれるかなり横に長い櫓が建っていたとのことだ。

tsuyama-8919二ノ丸へ。二ノ丸からは、本丸南側に建つ復元された備中櫓が見える。

tsuyama-8921二ノ丸から見た備中櫓。城内でも最大の櫓だった備中櫓の特徴は「全室 畳敷き」。櫓といえば中は板敷きか土間といった土足のまま入るスタイルが多いが、まるで本丸御殿のような櫓だ。発掘調査で確認された遺構や、古写真・絵図などを参考に高さや平面規模を設定し、内装等の細かい仕様は同時期の他城郭を参考に建築したという。かなりの高石垣の上に建っている。15mほど?

tsuyama-8921b-9056備中櫓を斜めから。見慣れた正面からの姿とはまた違った表情。そして、備中櫓の奥の石垣のほうが備中櫓が載っている石垣よりも高いことに驚く。

tsuyama-8921c-9053二ノ丸 説明板。備中櫓下の石垣の左下のほうにひっそり立っていた。二ノ丸奥には二ノ丸御殿があって、森氏が藩主の頃はここに住んでもいたようだが、森氏改易後に津山へ入った松平氏により二の丸御殿は撤廃されたとのこと。

tsuyama-8923続いて、二ノ丸から本丸へ向かう。二ノ丸の、横に長ーい石垣に沿ってどんどん東へ進む。

tsuyama-8924この二ノ丸石垣、よく見ると、石垣が途中で追加されていることが分かる跡が残っていた。元々はここまでだった二ノ丸石垣が、後にこの右側に大幅に拡張されたようだ。

>> 津山城 [中編] へ続く。<<

訪問時期:2014年3月
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津山城 [前編] 往時の大規模さが分かる巨大な石垣群” への2件のフィードバック

  1. 新年に当たり、御礼申し上げます。3代そろって城巡りの我が家では、貴サイトが本当に身近に感じつつも、丁寧な解説やきれいな写真に感服しております。貴サイトへ一城一城見て回った感想をお送りするのもストーカーみたいで失礼かと遠慮しております。

    ただ今年も初詣=岡山の最上稲荷(=自営業:香川県ながら岡山のお稲荷さんのお札です)の後の城巡りとして、念願の津山城訪問だったので、ついメールしました。
    無論、津山は私の関係や息子(=工学部出身・エンジニアながら城巡りマニア)の都合もあって何度も訪問している街ですが、お城まで行けていませんでした。父:92歳、私:61歳、息子:28歳の3代でいつものように訪問しました。

    すみません、前置きが長くて。津山城は明治維新時にきちんと保護して居れば、姫路、熊本、福岡に次ぐ巨城(=江戸、大坂、名古屋、和歌山、駿府、福井の幕府系は別)として、大変な観光資源になっていたことでしょう。貴サイトで大変丁寧に三の丸から二の丸、そして本丸へと詳細な石垣群が紹介されていますので、今更説明も必要ではありません。しかも人のサイズと比べるとまさに巨城の名にふさわしい規模。18万6千石で入封した石高で、ここまでの規模が必要だったかは不明ですが、戦国時代の気風を強く残した森家には、こうした入封先での威厳や決意を込める必要があったのかも知れません。

    城巡りでいつも思いますが、城主たちはどのように予算を工面して建設できたのか?いつも考えさせられます。ピラミッドでもそうですが(=公共事業的にと)、決して領民をただ働きや酷使して築城したわけではないので・・・戦国時代が続き各領主は経済的にも疲弊していた上、また徳川幕府による藩配置が確立されるまで、転封が続き経済的な余裕がなかろうかとも思いながら。安土城建設予算が現在換算で450億円くらいかと聞きました。ただ当時の織田家の資本力は、軍団長(=柴田、羽柴、滝川、明智、蒲生、池田など)への配分は別としても、300万石を超えていたはず(=江戸転封となった徳川家康が約250万石とか)とすれば、森忠正公は随分と無理をしたのではないかと下種の勘繰りです(笑)。
    また城作り=町づくりですので、城の構えとともに城下町整備、水害に強い区画整備などの施政手腕が問われただけに、想像と興味がつかないのものです。

    親子3代そろって、92歳の父の天守登楼にはらはらしなが(=江戸時代、怠慢な殿様など1年に1度すら天守に上がるかどうかだったのに比べれば立派なもの)、城巡りは楽しみです。
    もっぱら撮影係は家内か息子で、私は撮影はあまりせず、買い集めて読み込んだ城本の解説と現実の違い比べがひそやかな楽しみ。
    さて長いメールのおまけですが・・・大名庭園だった「衆楽園」は行かれましたか?市民公園化していますので入場料は無料。でもその割に野趣に富んで遺構が残り、何とも言えません。

    津山は長く音楽大学がおかれていた街ですので、城下町の歴史性と感性がある市民意識とがマッチした良い街です。改めて貴サイトでの詳しい紹介に感謝します。
    最後になりましたが、そこそこ回っていますので、つい書き込んでしまうかもしれません。ストーカーと思わずご寛容ください(笑)。私も早く引退して城巡りを充実したいのです。

    では貴サイトの本年、益々の充実と貴殿のご健勝を祈念申し上げます。合掌

    1. 大西様、想いのこもるコメントありがとうございます。

      おっしゃるとおり、津山城は石垣だけながら、見事な石垣とそれによる城郭構造が大規模に残っている名城跡ですね。建物が残っていればという話は他の多くの城郭でも同じで、悉く破却されたのは残念ではありますが、当時の時代背景を考えれば致し方なかったのかとも思います。

      またこれだけ立派な城郭を忠政公が造りあげたのは、加増転封でやってきた津山で心機一転頑張ろうという忠政公(当時三十代中盤、今も昔も人生脂の乗りまくりな時期ですね)の決意の現れだったのかもしれませんね。津山の前は信濃川中島藩で居城は信玄の建てた海津城、津山城は彼にとって初めての居城の築城で、入封時にはかつての領主だった宇喜多家・小早川家の家臣団らによる巨大一揆があったりしてかなり苦労したようですし、巨大な城郭で森氏の力を備前内外に見せつける必要があったのかもしれません。また織田家以来3代の天下人に仕えた森氏、石高以上の資産や人脈等も相当にあったでしょうし、他の城郭で見られるような「近隣の廃城からの資材流用」によるコスト削減術なんかも駆使したのかもしれませんね。いろいろ考えるのも楽しいものです。

      衆楽園は未訪です。旧津山藩別邸庭園ですね。前回訪問が2014年3月、そろそろ再訪したい頃合いですので、その際はぜひ衆楽園にも寄ってみたいと思います。まさに、名城の近くには名園あり、ですね。情報ありがとうございます。
      http://www.tsuyama-kanko.jp/sp_data/si.html

      お城好きな全国の皆さんから、有益な情報や、お城への熱い想いを込めたコメントを頂けるのは、とてもありがたいです。またコメントいただければ幸いです m(. .)m

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