松江城 [前編] 打込ハギと野面積みの見事な高石垣

松江藩主 堀尾氏によって江戸初期の1611年に築かれた近世城郭 松江城は、現存12天守の1つで山陰唯一の現存天守。堀尾氏躍進の祖となった堀尾吉晴は若くから秀吉に仕え、豊臣政権では三中老の1人として政権中枢を担ったが、関ヶ原では東軍に付き戦後 出雲24万石の大名となった。最初は旧尼子氏の巨大山城 月山富田城に入るも時代の流れで松江に新たに築城。家督を譲った子 忠氏、孫 忠晴とともに松江城と城下町を築いた。天守だけでなく美しい内堀や数多くの石垣が残り、二ノ丸の三櫓は平成になって復元された。

<基本データ>
●名称: 松江城 (Wikipedia)
●所在: 島根県松江市(マップ
●築主: 堀尾忠晴(堀尾吉晴の孫)
●築城: 1611年(慶長16年)
●遺構: 現存天守、石垣、曲輪、堀
●情報: 日本100名城 No.64 (一覧)


<訪問記>

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松江城訪問時はまたも雨。人が少なくて逆に見やすいだろうとポジティブ思考で登城開始。まずは内堀の向こうに見える高石垣、犬走りと、木造復元された二ノ丸櫓群。

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大手門から城内へ。ここは 大手木戸門跡。大きな間口から巨大な門があったのだろうと想像される。石垣を構成する石もかなり大きめ。

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大手門前には初代松江藩主 堀尾家を大名にまで発展させた堀尾吉晴公の堂々たる銅像が建つ。初代藩主 忠氏(吉晴の子)でも、松江城が完成したときの城主 忠晴(吉晴の孫)でもなく、吉晴公な訳は、説明板では「松江開府の祖」だからということのようだ。また吉晴公は築城の名手とされ松江城築城においても北の丸で自ら指揮をとったと伝わるとのことで、その時の様子をイメージしたポーズをとっているとのこと。なるほど。平成25年6月建立。

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大手門前に立つ 史跡松江城案内図。堀尾吉晴公によって築かれた、とはっきり書いている。史実では、松江に城を建てる(出雲国入府時は月山富田城だった)と決めたのは初代藩主 忠氏公だが間もなく病死し、跡を継いだ二代藩主 忠晴公はその時僅か5歳、実質は政治も築城も祖父の吉晴公が指揮をとっていたのだから、城も実質 吉晴公が建てたようなものだとも言える。しかし吉晴公は松江城の完成を見ずに完成の数カ月前に死去している。

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大手木戸門跡を越えて、広い曲輪へ。馬溜跡。すごく広いが、石垣で四方を囲まれた枡形となっている。雨で水たまりがアチコチにできていて大変だ。

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馬溜の出口付近に、松江城の史蹟碑と、馬溜の説明板があった。

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馬溜 説明板。城側の出口には、鯱を付けた壮大な大手門(図面では大手虎口之門とある)があったという。正面には高さ13mの高石垣。発掘調査で約50cm地下に江戸時代の井戸や石垣水路などが見つかっているようだ。

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大手門を越えて、二ノ丸下ノ段へ。元々は土塀で仕切られていたようだが今はなく、向こうまで芝生が見渡せる広場となっている。ここには米蔵などが建っていたとのこと。目の前に「小泉八雲文学遺跡」という碑が立っている。碑の横に書いてある説明によると、彼が松江にいた頃ここは中学校の敷地内でここの様子を日記等に記していたという。ちなみに城の北側に小泉八雲関連の資料館や旧居などがある。小泉八雲は中学校あたりで習った明治期の有名な小説家 ラフカディオ・ハーンの日本名。

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二ノ丸下ノ段から石段を上がって二ノ丸上ノ段へ向かう。雨なのに結構観光客が居る。さすがは現存天守。石段の左側には見事な打込ハギの高石垣。

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石段を上がった所(右側)に、古い石垣の一部があった。よく見ると、というか、よく見なくてもかなり目立つ刻印跡。これは分銅紋。分銅紋は説明板によると堀尾家の印という。

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刻印が残る石垣の横に立っていた説明板。この手の説明板では、よく日本語の文章をそのまま直訳で英語にして読みづらい英文になっていることも多いが、この英文は上の文章をちゃんと意味合いベースで英語らしい文章で書かれている。英文中にNodura-dumiとかUchikomi-hagiとか書かれても分からんし意味ないので、そういう日本語ベースの呼び名はバッサリ捨てて、組み合わせやすい様に予め切った石を使う方法と、自然石をそのまま使う方法の2種類の技法で石垣が築かれている、と簡素に表現している。刻印についても、城が建てられたときの時代を思い起こさせる刻印が多く見られる、とアッサリ表現。こうあるべき。

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石段を上がると、高石垣の向こうに天守がちらちらと顔を見せるようになってきた。もちろん往時は石垣の上に土塀や櫓があっただろうから、江戸時代はこの角度で天守は見えなかっただろう。ここは先程の石垣の横にあった高石垣とは異なり、自然石をそのまま積んだ野面積みだ。

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二之丸地区 解説板。藩主の居宅があったという。御書院は the drawing room と英訳されている。

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二之丸上ノ段への入口にあたる 三ノ門 跡。入ってまっすぐ進むと二之丸上ノ段、すぐ右に曲がると本丸へ続く石段(二ノ門跡)へ。

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まずは本丸へ向かおう。ここは二ノ門跡。

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二ノ門跡をまっすぐいったところあたりにある 松江城 天守 説明板。小さいながらも五重六階。犬山城などのように廻縁は無いが、望楼型と言われる、大きな櫓の上に望楼を乗せた古い形式の天守だ。早く見たい。ちなみに松江城天守は戦前の法律では国宝だったが、現法では重要文化財となる。これは別に”格下げ”された訳ではなく、法改正に伴い名称が変わっただけなのだが(戦後の法改正で国宝は重文になり、重文の中の一部が国宝に改めて指定された)、国宝で無くなったことがかなり悔しい? ようで、日本語でも英語でも逆接表現で説明してある。松江城を国宝に!というノボリもあちこちで見られた。ちなみに国宝天守は姫路城・彦根城・犬山城・松本城の4天守のみ。

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二ノ門を越えて、いよいよ本丸へつながる一ノ門へ。立派な門と櫓が建っているが、松江市HPによるとこれらは戦後の復興で史実に基づいたものではないとのこと。それでも他の建物とかなり雰囲気を似せて造ってあるので特に違和感は無い。正面の櫓の石垣の色が違うのは、再建時に積み直したのだろうか。

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一ノ門 正面へ。松江城の正保城絵図を見ると、恐らく門は今ある場所ではなく、手前の石垣櫓台をまたぐようにしてあったのかもしれない。

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復興 一ノ門。門を越えたところに料金所があり、天守ではなく本丸からが有料となる。

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本丸に立つ 史跡松江城 説明板。石垣で多く見られる黒い岩は松江市の東部の山麓から算出する火成岩(火山噴火で出来たマグマ由来の石)の一種、安山岩のようだ。

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本丸入口付近から見る 松江城 現存天守。天気は悪いが、美しく整えられた緑の道と芝生、可愛いピンクのボンボリの向こうに堂々とそびえる黒い天守。すばらしい。右上に電線があるのはショボーン。

>> 松江城 [中編] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
撮影機器:SONY NEX-C3
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松江城 [前編] 打込ハギと野面積みの見事な高石垣” への1件のフィードバック

  1. とても、写真を載せて、わかりやすい説明もあり、とてもいい!

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