三木城 [前編] 秀吉の”干殺し”で落ちた別所氏の城

三木城は東播磨の有力戦国大名だった別所氏の居城で、15世紀後半に別所則治が建てたとされる。台地の先端に築かれた丘城で、北西は川が遮り、南と東には山上に要害等を配置し堅固な城だったという。有名になるのは城主 別所長治の時に起こった織田軍(秀吉)との三木合戦で、秀吉は周囲に数多の付城を築き三木城を包囲。毛利方からの兵糧搬入を阻害し続け、2年もの攻防の末、多くの砦を落とされ兵糧も尽きた別所氏は自害し、降伏開城となった。城は1615年の一国一城令で廃城となった。

三木城<基本データ>
●名称: 三木城
●所在: 兵庫県三木市(マップ
●築主: 別所則治
●築城: 15世紀後半
●遺構: 曲輪、井戸、首塚
●関連: 三木市HP

<訪問記>

三木城跡は神戸電鉄という私鉄の「三木上の丸駅」前にある。神戸 新開地から神戸電鉄で45分、三木上の丸駅へ到着。

miki-00-9605三木上の丸駅。この風情ある駅舎! 朝晩の通勤通学時間帯はそこそこ電車は来るようだが、昼間は1時間に1本。気をつけよう。

miki-01-9509駅を出て川を渡って、川を挟んで丘の上の城跡を見る。模擬だが白壁が建てられている。

miki-03-9602白塀の下までやってきた。壁の向こう側が城跡公園なのだが、壁のすぐ外側には金網で封鎖されてて辿りつけなかった。

miki-03a-9603城跡へ向かう石段の途中にこんなノボリを発見。地元の戦国大名 別所長治公ではなく、合戦後に三木の街を復興発展させた秀吉公でもなく、秀吉の家臣にすぎない竹中半兵衛・黒田官兵衛 推しとは…。おそるべし大河効果。

miki-04a-9601三木城跡 上の丸公園へ。結構広い。左奥の方にいろいろ看板などが立っているようだ。

miki-05-9573三木城址 説明板。一国一城令で廃城となった後、資材は明石城の建築部材に使われたようだ。いま居る場所が本丸跡、奥の図書館等が建つところが二ノ丸跡の様子。その他、城址公園外だが別所長治公の首塚も残るという。

miki-05a-9597城址公園内にある「かんかん井戸」。看板によると、石を落とすとカンカン音が鳴ることからカンカン井戸と呼ばれるらしい。三木城本丸内 唯一の井戸遺構で、深さ25m、この井戸からは別所氏愛用の鎧が出土し、近くの寺で保存されているという。

miki-05b-9600井戸の中を覗いてみる。周囲をしっかりと石で囲っている。そのため石を落とすとカンカン鳴るのだろう。覗きこんだ人がモノを落とさないようにするためか、目の細かい金網が張ってあり、写真が撮りづらかった。ピントが石ではなく手前の枝にあるのはご勘弁を。

miki-06-9574三木城跡が平成25年に国の史跡に指定されたことで出来たと思われる新しい説明板。想像図ではあるが当時の三木城の縄張り図が描いてある。しかし今の状態が分からないのでいまいち規模感が沸かない。地元の人なら分かるのかも。

miki-07-9576新しい説明板の裏には、達筆な文字で「三木城包囲の秀吉軍 武将配置図」が描かれていた。これだけ囲まれると毛利氏からの援軍も補給も厳しく、どう見ても別所氏に勝ち目なしと言わざるを得ない。左上(北西)に、三木城主 別所長治の叔父にあたる別所重棟の陣があることに注目。織田方につくべしと考えていた重棟は、長治が織田を裏切って毛利方についたことに反対し、三木城を出たという。

三木合戦図1三木合戦図! マンガのように、24コマ構成のストーリー仕立てになっている。結構細かく描き込んであって読みふけってしまった。ちゃんと加古川評定での論争から始まる。最初のコマの三木城が江戸時代の城みたくなっているのはご愛嬌か。クリックして拡大。

三木合戦図2三木合戦図 後半。戦いの様子もさることながら、最後の長治公 切腹シーンはかなりリアル。介錯の家臣も刀を手に泣いている。こちらもクリックして拡大。

miki-10-9595城址公園の奥へ。公園の中央付近には小高い丘がある。天守台か。その横には騎馬像が建つ。順に見ていこう。

miki-11-9579まずは天守台へ。半分埋まっているが、階段の横に「天守跡」と彫られた石碑がある。

miki-12-9583天守台 上へ。礎石などはないが、大きな石碑が2つ立っている。背の高い木が周囲を囲んでいて眺望はよくない。ちなみに、観光案内所で買った「三木合戦を知る」という冊子によると、以前 三木市では本丸を発掘調査していて、この天守台の下あたりから石積みなどが出てきたようだ。遺構の少ない三木城跡、出てきた石垣をうまく保存展示することは出来なかったのだろうか…

miki-13-9580こちらは別所長治公 辞世の句碑。「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかわる 我が身とおもへば」。城主である自分が切腹して開城することで城内の残存兵や領民が救われることを願っていた長治公。その後、別所一族が自刃し城内の領民らは救われたとされているが、最近の研究では有岡城のごとく皆殺しになったという新説もあるようだ。(“三木合戦を知る” H25.12 三木市教育委員会発行 より)

miki-14-9581もう1つの四角い石碑は、別所家一族の辞世の句碑のようだ。城主切腹の際、妻や弟の別所友之ら一族も自刃している。彼らの辞世の句もそれぞれ残り、こうして地元に伝え継がれている。昭和17年 在郷軍人会 建立。

miki-15-9585天守台の横に立つ、別所長治公の石像。騎馬像なのはいいが、足元の草?炎?の造型といい、何だか全体的にモッサリ感がある気がしないでもない。

miki-16-9586石像の説明板。説明板は三木市設置だが、石像を作ったのは地元のライオンズクラブで、史実に基づいた姿ではありません。とわざわざ書いている。俺たち (三木市) が作ったらちゃんと肖像画のとおりに作るぜ、という想いが見えなくもない。いっそ作って並べてしまえばどうだろうか。

miki-17-9588別所長治公 騎馬像アップ。長治公といえば有名な肖像画(wikipedia)でよく見る”切れ長の目にホッソリした顔立ち”のイメージがあるので、この顔には違和感が… 目がグリっと上向いてて、なつかしの抜作先生を思い出した。福井城跡の結城秀康像(これ)、坂本城跡の明智光秀像(これ) に匹敵する違和感。あとやはり騎馬像を作るなら、高岡城跡の前田利家像(これ)か、高知城の山内一豊像(これ)のように、スラリとした乗りこなし感で造って頂きたいとも思う。

miki-18-9593気を取り直して奥の絵馬殿へ。奥はお稲荷さんになっている。

miki-19-9590別所治定奮戦圖。平井山(秀吉の本陣)合戦図とのことで、別所方の武将 別所小八郎治定(長治の弟)と、秀吉方の武将 樋口太郎との戦いの様子が描かれている。補給路が次々と断たれ苦境に立たされた別所方が起死回生を狙って秀吉本陣を攻めた平井山合戦だが、兵力に勝る秀吉軍が勝ち、この戦いで図中央の別所治定は討死している。

miki-20-9591絵馬堂にはもう1つ、播磨三木城復元図 が飾ってあった。大きな千鳥破風を持つ二層の櫓の上に、高欄・花頭窓付きの望楼が乗る、まるで犬山城のような天守が描かれている(参考:犬山城天守)。当時の播磨にはまだこういう形の天守はなかったような。

本丸跡はほぼ見終えたので、次は図書館などが建つ”二ノ丸跡”へ向かう。

>> 三木城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
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三木城 [前編] 秀吉の”干殺し”で落ちた別所氏の城” への2件のフィードバック

  1. 初めまして、三木市上の丸町住人です。詳しく三木を紹介して頂きありがとうございます。
    お恥ずかしながら、地元の人間がもっと地元の歴史など深く知らないと思うこの頃です。

    1. shogoさん コメントありがとうございます。私の地元の姫路もそうですが、三木でも大河ドラマブームで現地に説明板などが整備され、外部の方だけでなく改めて地元の方にも注目していただける良い機会かと思います。知る人ぞ知る、ではなく、生活しているだけで自然に情報が入ってくるよう色々と整備されるといいですね。

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