吉田郡山城 [中編] 徹底的に破壊し尽くされた三の丸下石垣

吉田郡山城 [前編] の続きです。バス停 安芸高田市役所 から歩いて10分ほどで歴史民俗博物館へ。中で100名城スタンプを押して しばらく展示を見てから、裏手にある郡山城登城道へ。毛利隆元公墓所、薬研堀などを見ながら、毛利家一族の墓所へ。

<訪問記>

koriyama-0010上の段へ。こちらには毛利家を中国一の戦国大名に押し上げた毛利元就公の墓所がある。

koriyama-0011a-0013毛利元就公墓所 説明板。毛利家の当主としてだけでなく、1人の人間としてもかなり波乱に満ちた人生を送っている。5歳で母を亡くし、10歳で父を亡くし、毛利家を支える3人の優秀な息子を育てるも49歳で嫁さんを亡くし、67歳になって跡を継いでいた長男隆元が急死。次男三男は吉川家・小早川家に養子に出していたので孫を跡継ぎにするも幼少のため自らが後見人となり75歳で死ぬまで毛利家を率いた。 墓の隣にはハリイブキという白い木が植えられたという。

koriyama-0012元就公 墓所。中央奥の巨木の右側にある白い木が説明板にあったハリイブキか。ハリイブキについては詳しく調べて書き記している先人ブロガーが居て(参考)、元々 中国から渡ってきた非常に珍しい白檀系の木で、日本には数本しか無い/無かったらしい。

koriyama-0014元就公の墓所を出て休憩所の方へ行くと、百万一心 と彫られた石碑がある。当時 城の工事でよく行われていた人柱の代わりに百万一心と彫った石を埋めることで郡山城の工事を無事完了させたという逸話があり(ただし一次資料なし)、その埋めた石自体は見つかっていないが江戸時代に石から造られたという拓本(写し)はあり、その字体を模刻したという。横の説明石碑にも書いてあるが、この百万一心という文字、よくみると百の縦棒が無く、一日一力一心 とも読めることから、日を1つに、力を1つに、心を1つにして皆で協力すれば何でも出来るという意味合いに解釈できるという。この石碑自体は昭和6年製。

koriyama-0019そして墓所の奥、休憩所(あずまや)の奥からいよいよ郡山城跡への登山道が始まる。東屋内の看板にはここから本丸まで25分とあったが果たして。現在12:25。

koriyama-0020登山道。道は細いが石畳が敷かれていて登りやすくなっている。横の木の柱?には何故かNAGOYAと書かれている。

koriyama-0021しばらく進むと道がふた手に分かれる。左に進むと 山部 へ、右へ進むと本丸へ、とある。どう見ても道は右へ伸びている、左は道というより堀切っぽい。まあ往時の山道はこんな感じだったのかもしれない(堀切というより切通しか)。右へ。

koriyama-0024いつの間にか石畳もなくなり、尾根伝いに植林された杉木を見ながらどんどん奥に進んでいく。道は平坦に整備されていて歩きやすい。

koriyama-0028と思ったら薬研堀みたいなV字の道を登っていく感じの場所もある。これも登山の醍醐味か。

koriyama-0029このあたりの山には古墳もあったようで、第一号古墳はこっち、第二号はこっち、みたいな看板も見られた。そしてある程度進むと、本丸へ530m という石碑を発見。まだまだこれからだ。

koriyama-0030道中、一箇所だけ木々が伐採され眺望の良い場所があった。ベンチも設置してあり、ちょうど休憩場所という感じか。

koriyama-0031休憩場所から見下ろす安芸高田市の街。中央ちょい右に見える赤い看板が youmeタウン。あの手前に歴史民俗博物館があるので、あそこから登ってきたことになる。結構頑張った。

koriyama-0035またしばらく黙々と登る。木で階段が作られている。本丸へ350m。

koriyama-0039道の右側に大堀切が見えてきた。地図によると、この下は薬研堀跡を見た大通院あたりになるようだ。

koriyama-0040大堀切の先端部をぐるっと回って向こう側に渡るような形で道は続く。このあたりの斜面には昔は石積みだったような石がゴロゴロ転がっていた。

koriyama-0045急に視界が開ける。いよいよ山頂付近へ到着したようだ。時計を見ると12:43。元就公墓所から約18分。地図を見ると、この上が三の丸、更に上に上がると二ノ丸を通って奥が本丸のようだ。そして三の丸の周囲には放射状に尾根に沿って曲輪がいくつも造られている。順に見ていこう。

koriyama-0046まずは最初に到着した御蔵屋敷跡。ここから各曲輪ごとに地図とともに詳細な説明板がしっかり立っていて、実にわかりやすい。

koriyama-0047御蔵屋敷跡 説明板。山頂を本丸とし、尾根に沿って放射状に曲輪が構成されているのがよく分かる図だ。御屋敷跡の東側には散乱した石があるようだ。見に行ってみよう。

koriyama-0049というか見に行くまでもなく、看板の裏側あたりから奥にかけてこのとおり石が散乱している。奥の一段高い土塁の壁に石垣が巻かれていたのだろうか。毛利家が広島から萩に移封された際、この郡山城は廃城となったが、ここまで破壊する必要はなく恐らくそのまま放置されていたと思われる。しかし1637年に過度な年貢/宗教弾圧/飢饉を苦に領民が起こした巨大一揆、通称 島原の乱 が起こり、その拠点として一国一城令で廃城となった原城跡が使われたため、鎮圧後に全国の廃城の破壊が進められたという。その一環で、ここ郡山城跡も徹底的に破壊されたと思われる。

koriyama-0049a-0091この石材の散乱具合。まさにリアル兵どもが夢の跡。よく見ると、苔がビッシリの石と、表面がキレイな石がある。この違いは…?

koriyama-0050三の丸へ上がる前に、三ノ丸の周囲を取り巻いている三の丸下石垣を見てみよう。パンフ等を見ると大抵この三の丸下の石垣跡の写真がよく載っている。御蔵屋敷跡向かって右奥の通路を進む。看板もこのとおり、三の丸石垣跡。

koriyama-0051a-0076ドドーン! この崩壊石垣跡! 以前は左上に見える三の丸の下斜面にびっしり積まれていたであろう石垣が、全部壊されてこの有り様。何だか哀しい一瞬。時とともに(自然に)崩れたのであれば、修復するという話も出るのだろうが、歴史的に壊されたのなら、壊れたままを歴史遺産として残しておくという方法をとっている。まぁこれだけ壊れていると戻し様がないか…

koriyama-0052a-0054壊れた石垣群をよく見てみる。三の丸の上から、積んである石垣の石を引っぺがして、下にポイポイほり投げたんだろうか。あるいは、積み直せないように、壊した石垣の石を更に細かく砕いたような痕跡も見受けられる。(石垣を壊した目的は反乱時の立て籠もりを阻止するためなので)

koriyama-0053三の丸石垣 立て札。この部分では当初の石積みをわずかに留めている、とある。どこかに残っているのだろうか。帯曲輪から三の丸への通路というのは、先ほど入ってきた御蔵屋敷跡のあたりから上にあがる道がそうだろう。

koriyama-0054a-0092立て札にあった、三の丸下通路にわずかに留めている当初の石積みを探す。崩れすぎていてよくわからないが、このあたりだろうか…?

>> 吉田郡山城 [中編2] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
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