吉田郡山城 [1/4] 中国一円を支配した毛利元就の本城

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は広島県安芸高田市の山中にある山城で、16世紀後半に中国一円を支配した戦国大名 毛利元就の本城だった。山一帯に曲輪が形成され巨大な山城だったが、毛利輝元が広島城へ移ると郡山城は支城の1つとなり、関ヶ原の敗戦で毛利家は国替えとなり郡山城も廃城となった。石垣はほぼ破壊され残骸のみが残るものの、曲輪や堀切など大規模な山城の跡はよく残る。山上には毛利元就始め一族の墓所がある。

<基本データ>
●名称: 吉田郡山城 (Wikipedia)
●所在: 広島県安芸高田市(マップ
●築城: 毛利氏
●竣工: 15世紀後半?
●遺構: 石垣、曲輪、土塁、堀切、井戸
●情報: 日本100名城 No.72 (一覧)

Link: 吉田郡山城 訪問記 其の一


<訪問記>

吉田郡山城は広島県は安芸高田市にある。公共交通を使って行ったため1日仕事だった。JR広島駅から広電(路面電車)で”紙屋町西電停”へ。停留所の前にあるデパート”そごう”の3Fにある広島バスセンターから、1時間に1本の吉田行きバスに乗り1時間40分、”安芸高田市役所前” へ。そこから歩いて10分ほどの場所にある歴史民俗博物館が、城跡への入口になる。

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安芸高田市役所前バス停を降りると周囲は山だらけ。どれが郡山城だ? と思っていると、バス停の近くに大きな看板があった。どうやらバス停を降りて市役所の建物と反対側に見える山全体が城跡のようだ。結構広い。まずは市役所を左手に見ながらまっすぐ進んだ先にある歴史民俗博物館を目指そう。(赤い看板の大きなショッピングセンター “you me タウン” が目印。ゆーみーたうん、じゃなく、ゆめたうん、とのこと)

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安芸高田市 歴史民俗博物館。巨大な櫓門風の建物だ。さすが毛利の旗印が満載。右側に大きく「選出 日本百名城 郡山城」と垂れ幕が掛かっているが、選出されたのは2006年なので8年間も掛けられているのかなあ。城の縄張図入りパンフはここでゲット。100名城スタンプも入場料を支払う窓口の左側に置いてあるので忘れないように。

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博物館前に立つ城跡案内図。け、結構広い。左下のモデルコース所要時間によると、ぐるっと一周するのに 5+3+5+2+5+25+25+2+4+5=81分、約1時間半。しかしよく見ると各地点での散策時間が入っていない。特に見るところが多い本丸一帯はかなり広いし30分ぐらいかかりそう。更に右下にある旧本城はモデルコース外。当然全部廻るので、2時間半から3時間コースか。

現在11:54。ちなみに博物館で30分以上費やしている(写真NGなので写真無し)。

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資料館を出て城跡の方へ。向かいの山が、郡山城跡。結構高い。まっすぐ上がるのではなく、一旦左側の小山に上ってから、尾根沿いに城のある山まで上がるようだ。

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登城道にいくまでの舗装道路沿いにいろいろある。まずは右側の少年自然の家に、軍配を持つ甲冑姿の毛利元就公像。なんか、ちょっと、イメージ違う(参考:教科書とかに載ってた元就公の肖像画のイメージ)。

少年自然の家の敷地内にはもう1つ、運動場の奥に「三矢の訓跡碑」が立っている。ただの碑なので写真は割愛。この自然の家一帯は元就公の居館 御里屋敷跡とのこと。

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元就公像から先に進むと、史蹟 郡山城趾の石碑あり。ちなみにこのあたりの道はすでに登山道が始まってるが如く 坂になっている。石碑台の傾きで何となく坂の角度が分かる?

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石碑の横に立つ、郡山城跡 説明板。270の曲輪を持つ巨大山城だったそうだ。

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しばらく進むと開けた公園風の場所に出る。まずはその入口に立つ一本の大きな木。元就公の火葬場跡とのこと。

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元就火葬場跡 説明板。大通院とはこの一帯の開けた公園風の場所のこと。火葬場跡には高さ10m、胴回り3mの栂の木(つがのき)が植わっていたが昭和46年に枯れたという。樹齢400年ってところか。今植わっている大木は二代目(約40歳)ということだろうか。

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最近建てられた日本百名城 郡山城 看板。ちなみにこの郡山城という字は毛利家 第72代 毛利元栄公 揮毫(きごう=毛筆で文字を書くこと) とのこと。

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公園(大通院跡)をぐるっと回って上部へ。奥に見える山が郡山城跡か。下に見える芝生広場には礎石跡みたいな配列の椅子? が設置してある。

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そのまま道沿いにあがると城跡への道となるが、正面の石段の上に毛利隆元公の墓所があるという。ちょっと寄り道して上がってみよう。

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このあたりの石積みは先程までと違って昔からあったような、そんな雰囲気がある。突き当たりを左へ。

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石鳥居の奥が毛利隆元公墓所のようだ。

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こちらが毛利隆元公募書。毛利隆元公は元就の長男で、元就より家督を継いでいたが元就が亡くなるより前に1563年に41歳で急死した。その後 家督は元就孫の輝元が継ぐこととなり、まだ幼かった輝元を支えるべく、隆元の弟である吉川元春・小早川隆景の2人が支える体制となった。ここには菩提寺の常栄寺が以前建っていた跡という。右側に高く積まれた石垣が目にとまる。墓石には毛利氏の本姓とされる大江の姓で書かれていた(大江隆元)。

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毛利隆元墓所 説明板。有名な弟たち(吉川元春、小早川隆景)に比べてやや影が薄い隆元公であるが、毛利家の屋台骨を影で支えていた人格者だったという話もある。最期は謎すぎるが食中毒あるいは脳出血なども考えられるが、やはり敵の多かった時代、毒を盛られたのだろうか。。。

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隆元公の墓所を降りて、先ほどの道へ戻り、奥へ進む。眼前にV字谷がある。薬研堀 跡 とのことだ。薬研堀とは空堀の一種で、薬研(やげん)は薬を作るときにすり潰す際に使うゴリゴリする器械のこと(こんなやつ)。この土台のように堀底がV字の形をしていることから、こういう堀を薬研堀という。逆に四角くちゃんと掘ってあるものは箱堀という。

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薬研堀 説明板まであった。平成22年製なので最近造られたもののようだ。元就公・輝元公の戦国時代に掘られたものだとか。

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薬研堀を越えると、大きな石鳥居が有り、元就公など毛利一族の墓所となる。登山道は墓所の奥からなので、まずは墓所へ。

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墓所への道は舗装してあるが結構急で、石垣がしっかりと積上げられている。郡山城は廃城後、江戸期になって破城(島原の乱で古い城が反乱軍に使われないよう幕府の命で全国の古城が壊された)されているので、恐らくこの石垣は近年のものか。あるいは墓所を守る石垣ということで残されたものかもしれない。詳細不明。

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高い木に囲まれた静かな道をしばらく上がると、史跡 毛利元就の墓 石碑がある墓所へ到達する。

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墓所は二段構成になっていて、下の段が一族の墓所、上の段が元就公の墓所となっている。まずは下の段から。

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毛利一族墓所 説明板。元々あちこちにあった墓所を、幕末にここに移してきたそうだ。元就は12代で、ここにある墓所は1−8代までの合葬と、10代、11代、そして先ほど参拝した13代隆元の妻。9代(元就の父 弘元)の墓が無いと思ったら、彼の墓は隠居していた近くの猿掛城にあるという。ちなみに輝元公の墓は関ヶ原敗戦で領地没収された後に行った萩城下にある(写真萩城 訪問記)。

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毛利一族墓所。毛利家家紋のついた扉は固く閉ざされているが、門の前にお供え物がたくさん置いてあった。説明板のとおり、墓石が左に3つ(左から10代興元、11代幸松丸、13代隆元の妻)、右に大きな合葬の土盛(初代〜8代)。

>> 吉田郡山城 [2/4] へ続く。<<

訪問時期:2014年4月
撮影機器:SONY NEX-C3
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