月山富田城(がっさんとだじょう)は、尼子氏による山陰制覇の拠点として知られる。富田城は鎌倉時代以降、歴代の出雲守護の居城として栄え、戦国時代に守護代だった尼子経久が独立し戦国大名となった。以降 一時は山陰山陽の多くを手中にした尼子氏だったが、安芸を拠点に勢力を拡大していた毛利元就に攻められ落城はしなかったものの兵糧攻めに遭い開城。現在に残る石垣を多用する近代山城としたのは関ヶ原後に出雲富田24万石を与えられた堀尾吉晴と思われる。松江城の完成後 堀尾氏は松江へ移り、富田城は廃城となった。
<基本データ>
●名称: 月山富田城 (Wikipedia)
●所在: 島根県安来市(マップ)
●築城: 佐々木氏? / 堀尾吉晴
●竣工: 12c後半 / 1600年頃
●遺構: 石垣、曲輪、堀切、井戸
●情報: 日本100名城 No.65 (一覧)
<訪問記>
月山富田城、またもあいにくの雨。雨で山城という最悪の状況だが、それほど風が強くなかったことと、歴史資料館が定休日で予定時間が少し浮いたことから、山上の本丸まで雨中登城を決行した。結果、登らなければ絶対後悔しただろう素晴らしい石垣群が出迎えてくれた!
月山富田城の散策は、山麓にある安来市歴史資料館前からスタート。この裏に城跡への登山道がある。100名城スタンプは資料館にあるので忘れずに。まずは資料館付近にある説明板等を見ていこう。
月山富田城 全域の立体模型図。上に人が乗れるぐらい大きく、実際ガイド氏は上に載って、ストックでここが山頂で〜などと指しながら説明していた。
史跡 富田城跡 案内板。左下の1番が歴史資料館で、今はその裏手にいる。3番の千畳平から上の城跡へは、少し右側の登山道から上がるような感じ。
もう1つの史跡富田城跡 絵図。なかなかリアルに細かく絵が描かれていた。右下の城跡モデル図を見ると城跡は山頂の本丸までほぼ一直線になっているようだ。
では登山道へ。右の車道をまっすぐ上がると、山麓の城跡部分の一番奥にある山中屋敷跡までいきなり到達する(工事車両とかが通る道か)。城跡を順に見ていくにはここから階段を上ろう。
こんな感じで看板が立っているので間違えない。千畳平まで100m、山中御殿跡まで860m。結構広い。
階段を上がったところにある最初の削平地が「千畳平」。その名のとおり、かなり広く、千畳どころではない感じ。
千畳平 説明板。太鼓壇とも言うようだ。
千畳平には、尼子神社 が鎮座していた。説明板によると、主祭神は尼子三代に加えて山中鹿介幸盛他諸勇士。昭和9年に当城跡が史跡登録されてから、商工会が当地を買い取り、公園として整備するとともに神社を建造したとのこと。
千畳平を奥へ進む。かなり広い。中央奥の木の向こうに何か見える。
槍を小脇に三日月に祈る、有名な姿の山中鹿介公像だ。
山中鹿介幸盛 説明板。毛利に滅ぼされた尼子家の再興を願い転戦し、最後は信長/秀吉の播磨侵攻に同行、上月城を任されるも毛利の大軍に攻められ落城、捕らえられ備中松山城のある高梁の町はずれで殺されたという。鹿介が捕らえられた時にかぶっていたという鉄錆十二間筋兜は、捕らえた吉川氏側に渡り、今も岩国城下の吉川史料館に展示されている。
願わくば我に七難八苦を与え給え!
後ろ姿。
像は結構な高さのある岩の上に置かれていて正面からだと顔が見えないので、少し斜めから御尊顔を拝見。
鹿介公像を見て、更に奥へ進む。細い通路を通って一段あがるような感じになる。
1つ上の曲輪、奥書院へ。ここもかなり広い曲輪で、奥書院という名前から建物があったのだろうが、今は石碑が1つ建つのみ。
奥書院に建つのは慰霊塔。先の大戦での戦没者を慰霊している。
奥書院を抜けると、次は花の壇と呼ばれる曲輪なのだが、その間は大きな堀切で遮られている。
今は堀切に沿って登山道が整備されている。足元に気をつけて進もう。
下って上って、この上が花の壇。
花の壇 平。ここもかなり広い。奥に復元された建造物があるという。
花の壇 復元建造物。説明板によると、花の壇には発掘調査によっていくつかの建物跡と思われる柱穴が見つかっており、その柱穴を元にして復元したものという。ちなみに左奥に見える山が、月山富田城本丸。まだ結構遠い。
花の壇 説明板。発掘調査によって出てきた柱穴の場所が詳細に示されている。花がたくさん植えられていたことから付いた名だとか。戦国時代の戦いの拠点に花を植えるのは、ちょっと不思議な感じだ。
本丸のある山まではまだ遠い。月山富田城跡はまだまだ続く。
>> 月山富田城 [中編] へ続く。<<
訪問時期:2014年3月
撮影機器:SONY NEX-C3
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