岐阜城は元々”稲葉山城”と呼ばれ、斎藤道三の居城として有名。道三を破り城主となった斎藤義龍の息子 龍興の頃に信長が攻め落とし、岐阜城と改名して新たに造営し居城とした。本能寺後は清須会議にて織田信孝の居城となるも柴田勝家側だったため賤ヶ岳合戦後に攻められ開城。その後は秀吉家臣を経て三法師(織田秀信)が城主となるも、関ヶ原の前哨戦で東軍に攻められ落城。城はその後廃城となり、天守や櫓などの建造物は新たに築城となった加納城へと移された。険しい山の頂にある城だが歴史上 7度落城している。
<基本データ>
●名称: 岐阜城(旧名 稲葉山城)
●所在: 岐阜県岐阜市(マップ)
●築城: 二階堂行政 / 斎藤道三 / 織田信長
●竣工: 1200年頃 / 1539年頃 / 1567年
●遺構: 石垣、井戸
●情報: 岐阜市HP
2014大河ドラマ「軍師官兵衛」2/23放送の第8話にて、安土城に移る前の信長の居城としてここ “岐阜城” が登場しました。
・ NHK大河ドラマHP へ(第8話あらすじ) ・ NHK大河ドラマ番外コーナー「官兵衛紀行」HP へ(No.8) ・ 大河2014「軍師官兵衛」特集ページ へ |
<訪問記>
金華山山頂にある岐阜城へは登山道が何本かあり、途中 石垣や堀切などの遺構が見られるらしいが、訪問時はあいにくの雨。ロープウェイで山頂の城跡まで一気に上ることとする。
ロープウェイ乗り場(山麓駅)の北西すぐにある駐車場から、山頂の岐阜城天守を見上げる。雨がザーザー降っていて、ほとんど見えなかったが、しばらく待っていると霧の間から一瞬顔を出した。この天気だがロープウェイは元気に営業中。ここまで来たし、あがるしかない。山麓には三重塔が見える。あの付近には信長公居館跡や庭園跡があり、発掘調査で色々出てきてるらしい。後ほど時間があれば回りたい。
ロープウェイは往復1050円(2014年4月からは1080円)。さらに天守および資料館への入場料が別途200円。結構高い。城ファンは(天気が良ければ)歩いてあがりたいところ。写真はロープウェイ山頂駅を出たところ、メジャーな登山道である「七曲登山道」および「百曲登山道」を通ってくると、駅の左右に出るようだ。
ロープウェイ山頂駅を出てすぐにある冠木門。天下第一の門、と名付けられていて、横の看板によると「信長の大志を讃えてここに冠木門を建て偉業を伝える」とあるので、往時はこんなところに門はなかったようだ。冠木門を建てて偉業を伝える…?
横にあった岐阜城の歴代城主一覧。幾度と無く戦闘の舞台となり、落城7回、関ヶ原後に廃城になるまで城主はこれだけ変わったようだ。
天下第一の門の横には、急階段で上にあがることが出来るルートが有る。上にあがると展望レストランがあり、往時は太鼓櫓があったとのこと。なおこの変わった紋様が入った岩場は、現地ガイド氏曰く、日本に地震を数多く引き起こしている要因である「断層」跡で、地下にあったものが押し出されてここまで盛り上がったとのこと。だから地層が縦になっているのか。
天下第一の門を越えてしばらく進むと、伝 一ノ門跡へ。看板のあるところではなく、その奥の岩が転がっているところが門跡らしい。
伝 一ノ門跡 説明板。巨石を道沿いに立て並べて石壁としていたとか。
一ノ門跡に残る巨石群。廃城後に加納城築城のために建材や石材は運ばれたが、少し残っているようだ。
一ノ門跡の崖側に残る石垣の跡。
岐阜城近辺にはこういった「岐阜城の歴史」という看板が立てられていた。これはその1。
しばらく進むとまた道がふた手に分かれる。まっすぐ進むと二ノ丸門へ。左へ進むと展望レストランなどがあるエリアへ。道はそのままこの前で合流するので、見所の多い左へ進む。
左へ進むとぐるっと廻るような感じで道がヘアピンカーブを描く。復元された白壁がある。写真を撮影している手前には展望レストランがあり、そのあたりは太鼓櫓跡だったようだ。少し見に行く。
レストランの写真は割愛(櫓跡はまったく無くレストランが建っているだけなので)。伝 太鼓櫓跡の説明板。古絵図によるとレストランの周囲は石垣で囲われていたようだ。
天守に向かってへ進む。巨大な岩の横すれすれに造られた道を進む。
一部、往時のものと思われる石垣の跡も散見される。ほとんどは加納城に持って行かれたのだろう。
派手な看板とともに、更に上にあがる急階段が出現。太閤秀吉の馬印・千成びょうたん発祥地とある。
木下藤吉郎と千成瓢箪 説明板。信長が斎藤龍興が籠もる稲葉山城を攻め落とした際のエピソードが元で、千成びょうたんを馬印にしたという。
二ノ門跡。脇の説明版によると、門の左右に残る石垣は当時のものという。また門の先は二ノ丸で、下台所と言われていたとか。今は木造閻魔王坐像が収められた金華山閻魔堂が建つ(赤いのぼりの建物)。
門を越えたところには「岐阜城の歴史」その2。道三が占拠してから信長が攻め落とすまで。
岐阜城跡の古絵図が大きな看板で掲示されていた。江戸時代のものという。細かく見たい方はクリックして拡大賜りたい。
いよいよ天守への最後の石段。天守の右側と左側に出る2通りのルートがあり、左の石段を上がれば天守のすぐ左下へ。右の土塀沿いに進めば天守の右下にある資料館を経て天守へ。分かれ道のところは天守が眺望できる絶好の写真スポット…なのだが霧のせいでほとんど見えず。うっすらと土塀の向こうに天守が見えるのが、分かる?
負けずに土塀越しから天守を見上げる。再建天守は、岐阜城天守が移されたという加納城の図面を元に設計されたらしいが、話によると実際の再建天守は設計とはかなり違うらしい。そんなことが許されるのか…?
しばらく進むと、登山道の1つ「馬の背登山道」の登り口が見えてくる。天守そばまで直接上がってくるなんてすごい登山道だ。全登山道の中でもっとも険しい道という(参考)。立っている看板の赤字に注目「老人・幼児には無理です」はっきり言う! Noと言える日本人。
そしていよいよ天守へ。
>> 岐阜城 [後編] へ続く。<<
訪問時期:2014年3月
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