岩村城 [前編] 女城主伝説の城は立派すぎる石垣が現存!

日本三大山城の1つに挙げられる岩村城は、標高700m超の山頂に壮大な石垣を誇る近世山城。この地は永く遠山氏が治めていたが戦国時代に入り武田氏や織田氏が侵攻し幾度となく戦場となった。その頃の話として”女城主”の伝説も残る。現在残る石垣は織田氏が攻略後に城主となった河尻氏あるいは本能寺後に城主となった森氏 以降に構築されたもの。

岩村城<基本データ>
●名称: 岩村城(別名 霧ヶ城)
●所在: 岐阜県恵那市(マップ
●築城: 遠山氏 / 河尻秀隆 / 各務元正
●竣工: 南北朝時代 / 1580頃 / 1598頃
●遺構: 石垣、曲輪、井戸 等
●情報: ホットいわむら恵那市観光協会


<訪問記>

岩村城跡の散策は、山麓にある藩主邸跡(駐車場と歴史資料館がある)からスタート。

iwamura-01歴史資料館前から見た藩主邸跡と、復元された太鼓櫓・表御門。藩主邸跡は観光バスが何台も停まれるぐらい広い。

iwamura-02まずは復元された太鼓櫓・表御門へ。太鼓櫓および右側の蔵には入れないが、表御門はくぐって向こう側(門正面)へ出られる。

iwamura-03太鼓櫓前に立っていた、太鼓櫓のいわれ 説明板。太鼓櫓のいわれの説明板なのだが、ノッケから「太鼓櫓のいわれを記す前に岩村城の歴史を記さねばならない」から始まり、岩村城の歴史でスペースの約7割を割いている。「太鼓櫓は庶民と殿様との深い絆を象徴する建物」だとか「現在各地で造られている鉄筋コンクリート造りの偽物ではなく」など、筆者の熱い? 思いが伝わる文面だ。そんな岩村町では「作ろまいか女城主の里事業」と銘打って超長期計画で城全体(!!)の木造復元を行う計画だとか。すごい。

iwamura-04表御門を出て、正面から復元建造物を見上げる。この門は北向きに建っており、この方向で写真を撮ると南向きとなり晴れの日の昼間はどうしても逆光になってしまう。太陽を櫓の向こうに隠して、低位置から超広角で撮ってみた。

iwamura-7361太鼓櫓横には、岩村藩の藩校”知新館”の正門と、知新館で学んだという幕末の儒学者 佐藤一斎の銅像、そして写真の四脚門が建っている。この門については説明がなかったのだが、知新館の山門だろうか?

iwamura-7362-big(↑写真をクリックすると拡大します)城跡への山道入口に立つ全体案内図と古絵図。山頂の石垣群だけでなく、その道中にもいろいろと見どころがあるようだ。

iwamura-7363こちらが岩村城跡へ続く山道入口。岩村城 登城口 の立派な石碑が目印。緩やかな坂道がずーっと続く。

iwamura-7364登り始めてすぐぐらいに「本丸まで七百米(メートル)」の木柱があった。ここから100mおきに、同様の柱が立つ。このあたりまではコンクリート舗装の道だが、しばらく進むと石畳に変わる。なおこのあたりには道の左右に明治時代の教育者 下田女史の石碑や学問所などが並ぶが、城跡とは関係ないのでパス。ガイド氏はやたら詳しく説明していた。

iwamura-7369山道(石畳)の途中にある、藤坂 説明板。この説明板が立つところだけではなく、山麓の藩主邸跡から一の門までの間の石畳の坂道全体が「藤坂」のようだ。

iwamura-7370本丸まで六百米。このような整備された石畳の道が続く。

iwamura-7371藤坂の途中には、石畳で造られた排水溝跡のようなものも残る。石の整形具合からして近年のものか。もしかしたら江戸時代のものかもしれない??

iwamura-7372比較的まっすぐに伸びている山道だが、一箇所急にクランクになっている場所がある。常時は門などは無かったようだが(最初の門は「一の門」としてもう少し上にある)、緊急時にはこのクランクを利用して仮設門を作り敵の侵入を少し食い止める役割もあったとか。

iwamura-7374ということで、このクランク部分には「初門」という名前がつけられていたようだ。

iwamura-7375本丸まで五百米。緩やかな石段が続く。山の斜面を削って道を通したいわゆる「切り通し」。ちなみに藤坂の説明板に「急坂」とあったが、山城の中ではかなり緩やかな斜面の方だと思う。急坂とは鳥取城の詰城(久松山)ぐらいの坂を言う。

iwamura-7376山道脇の斜面に、大木を伐った切り株がいくつか残っていた。前の看板には「巨木並木址 登城坂の巨木群伐採址 切株に注目」とある。植林されている杉の木よりも圧倒的に太い切株。城を築くのに伐ったのだろうか…?

iwamura-7378本丸まで四百米。ここで遂に奥の方に石垣が見えてきた。おおっと声が出る。

iwamura-7380突如始まる石垣群。いよいよここからが本格的な城跡ということか。石垣には苔がビッシリ。

iwamura-7382ここは一之門跡。古絵図によると、上の写真の角を曲がった辺りに二層の櫓門が築かれ、その左右には土塀あるいは多聞櫓が続いていたようだ。

iwamura-7384一之門跡付近。門を越えると少し落ち着いた雰囲気になるが、右側はずっと石垣の壁が続く。

iwamura-7385右側の石垣は道の奥までしっかり残っていた。苔むし方が半端ない。

まだまだ一之門。本丸まではまだ幾つもの門を越えなければならない。先は長い。

岩村城 [中編] へ続く。


訪問時期:2014年3月
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