小田原城 [後編] 復興大天守よりも奥の天守台崩壊石垣が見所かも

小田原城前回までの小田原城 訪問記。

バス駐車場より入城。

復元御門や復元橋等を見ながら一路本丸を目指す。

二ノ丸から常盤木門を通って、いよいよ本丸へ。


<訪問記>

odawara_s-24s本丸に入ってすぐ目に入るのは白亜の復興天守…の前にそびえる松の木。小田原城跡には松の巨木が多い。元禄年間に描かれた古絵図にも本丸に七本松がある。もっとも、往時は本丸中央に立派な本丸御殿が建っていたので、ここ(常盤木門前)から天守は見えなかった。

odawara_s-25小田原城本丸 説明板。先ほど入ってきた常盤木門の他に、本丸には鉄門(くろがねもん)と呼ばれる北側の裏口があったようだ。こちらは復元/復興されていない。

odawara_s-26本丸中央の巨大な松の木を越えて、本丸を激写。この角度からの姿が一番メジャー。一応 江戸時代に造られた雛形模型等を参考に外観復元ということになっているが(昭和35年築城)、観光客が外に出られるように高欄付き廻縁を新設するなど一部見た目も変えてしまったため復興天守扱いになっている。ガイド氏曰く、天守台石垣も関東大震災で崩れていたところを天守復興に合わせ積み直しているが、見えるところだけを集中的に直したらしいので、実は奥には崩れたままの姿が残ってたりするらしい。ということで後で奥も見に行ってみる。

odawara_s-26as天守に行く前に、本丸中央の松が植わっているところを一瞥。ここには往時は本丸御殿が建っていた。今は鳩の家。

odawara_s-27asでは天守へ。向かって左側に延びる長い石段をあがると本丸内へ。100名城スタンプは入ってすぐの受付にある。

内部はお決まりの歴史博物館になっていて、復興の元になった天守模型(江戸時代製)や鎧兜銃刀、古絵図などがいっぱい展示されていたが写真NGなこともあり特に印象に残らず。文化財現物以外は写真OKにして頂きたい。

odawara_s-45aなぜか中4階の企画展フロアのみ写真OKで、明治以後の写真などが展示されていた。解体中のオリジナル天守。明治初頭。

odawara_s-46a天守解体後に天守台の上に建てられた大久保神社時代の写真。

odawara_s-28石段のところにある 天守 説明碑。400円也。

odawara_s-29最上階の展望フロアへ。江戸時代には無かった高欄付き廻縁のお陰(?)で広い眺望が楽しめる。しかし落下防止の網をつけるのなら、最初から高欄を高めにすればよかったのでは…?

odawara_s-30石垣山城 方面。朝起きたらあの山頂に生えてた木々が無くなってて、そこにドデカイ総石垣の城が建ってたら、そりゃビビるわなあ。

odawara_s-31a伊豆半島 も一望。あの海にもビッシリと九鬼や長宗我部の水軍がひしめいてたわけだ。あなおそろしや。

odawara_s-32さて、天守を降りて奥の崩落石垣を見に行く。全面は石垣もビシッと揃えて積んであるが、奥には確かに土塁がそのままむき出しになっているようだ。もう少し近づいて見てみよう。

odawara_s-33崩落した石垣石と思われる、整形した石材がゴロゴロ。天守台の土塁部分には崩れた石が埋まったままだ。

odawara_s-34ゴロゴロしてる石を見てみると、矢穴の跡がしっかり残っている。説明板も何もなし。確かにこっち側まで見に来ている観光客はほとんど居ないが、、、

odawara_s-35手前だけでなく、奥の方にも石垣石がゴロゴロ。石垣の墓場。実に痛々しい。豪壮な復興大天守の裏にこんな場所がある。

odawara_s-36崩れたまんまの天守台石垣を見て少しガッカリしながら城を降りる。途中、ねじれた巨木が見送ってくれた。城跡内にはこういった樹齢数百年の天然記念物な巨木が結構あるとのこと。イヌマキ という木で、樹齢 推定400年とか。小田原合戦からの生き証人…いや生き証木 かもしれない。看板によると、台風で北半分の枝が折れてしまったとか。

odawara_s-37さて城址公園を出て、少しだけ城下町の散策へ。箱根口の方に出ると、箱根口周辺の遺構 説明板があった。図面を見ると、江戸時代の城の形と今の街の形がまったく違うことが残念。堀を全部埋めて、まっさらにして、街を作り直したということだろうか。それでも、箱根口門の石垣と、それに付随する土塁の一部が現存するようだ。こんな街中に? 散策してみよう。

odawara_s-38道をしばらく南下すると、学校の向こう側に小さな公園があり、その入口に石垣が!石垣の上には「箱根口門跡」という石碑も立っている。箱根口門は枡形になっており、その城側の入口のみ石垣だったようで、これはその片方。もう片方の石垣は真上に道路が走っているので破壊されたようだ。石垣に続く枡形の半分程度が現在公園になっている模様。なおこの石垣の前にある50cm程の木柱の一部らしきものは、当時の門柱の一部…かもしれないと妄想しよう。

odawara_s-39石垣を反対側から。奥に見える建物はその名も「三の丸小学校」。この小学校の正門や校舎は瓦葺で白壁、外周を囲む壁は城壁風で狭間まである。校内にはこの門跡から続く土塁が現存するとか。しかし校舎地下に全天候型のプール設備があったりと、見た目は伝統的だが中身は最新鋭の学校だ。色々すごい。

odawara_s-40こちらは門跡から西へ延びる土塁の一部。スポーツ会館の裏手あたりに一部現存していた。会館の向こうは駐車場になっており、そこで土塁は途切れていた。

odawara_s-41土塁の向こう側には、箱根口門の石垣の一部と思われる石積み(の頭)が見えたので、柵に沿って一周してみたが向こう側にはどうしても辿りつけなかった。たぶん見えてる家の敷地内かと。残念。

odawara_s-42町内は北条氏時代からの町名が多く残り、それぞれに石碑が建っていた。4つ紹介。薬と菓子で有名な「外郎(ういろう)」は欄干橋町にある。

odawara_s-43sおまけ:欄干橋町にある「外郎(ういろう)」。お菓子のういろうと、薬のういろう(トウチンコウ)がある。元朝の秘薬を売る京都の外郎氏 (元朝滅亡時に日本に亡命した現地人が始祖と言われる) が、時の小田原城主 北条早雲から乞われて分家が小田原で店を出したのが始まりという。それよりこの店の建物の目立つこと、三層なのに正面だけで唐破風4つに千鳥破風3つ、花頭窓まであるド派手っぷり。小田原城よりも城っぽい?。しかし店内に展示してあった古写真によると、関東大震災で崩壊する前の外郎本店は八棟造りと呼ばれる破風が1つの屋根に8つ(!)乗ったすごい構造の建物だった。最上階だけでもこの形で再建すればよかったのに…!

odawara_s-44衝撃の「外郎本店 八棟造り」時代の古写真の写真。これはなんという迫力! 力強いのに今のデザインよりもおしゃれで上品。すてき。惜しくも関東大震災で倒壊。

小田原城跡は、城址公園内は天守・城門・堀などほとんどが復元/復興物で江戸時代からの遺構は少ない。しかし全長9kmとも言われる惣構えを構成していた土塁や堀切は結構残っているようで(現地配布の「小田原城惣構を歩こう」パンフ参照。PDF)、特に北部には20mを越える大堀切などもあるようだ。今回は時間の都合で城址公園中心の散策だったが、次回はぜひ石垣山(秀吉の一夜城)・八幡山(小田原古城)と併せて北部の惣構え遺構を見に行きたい。


訪問時期:2014年2月
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小田原城 [後編] 復興大天守よりも奥の天守台崩壊石垣が見所かも” への2件のフィードバック

    1. ゆーかさん
      そうです、私もこの写真を外郎店内で見て、なぜ同じ形で再建しなかったのだろう?とちょっと残念に思いました。

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