上赤坂城 [1/2] 曲輪堀切など遺構がよく残る鎌倉末期の山城跡へ。

上赤坂城 (かみあさかさじょう) は、別名 楠木城 (くすのきじょう) とも呼ばれ、鎌倉末期に倒幕に向け挙兵した “大楠公” 楠木正成 (くすのき まさしげ) の本城だったと伝わる。周囲には他に前衛となる下赤坂城と詰城である千早城があった。下赤坂城および上赤坂城は幕府軍の攻撃により落城したが、続く千早城での籠城戦では数々の奇策により対抗、その間に全国で倒幕派が蜂起し、鎌倉幕府は滅亡した。近隣の関連山城の中では曲輪や堀切などの残存状態がもっとも良い。登城の際は近くの千早赤阪村郷土資料館に寄って歴史などを勉強していこう。

<基本データ>
●名称: 上赤坂城(楠木城) (Wikipedia)
●所在: 大阪府南河内郡 (マップ)
●築主: 楠木正成 (くすのき まさしげ)
●築城: 南北朝時代
●遺構: 曲輪、堀切、切通し
●関連: 千早赤阪村郷土資料館

Link: 上赤坂城


<訪問記>

上赤坂城を含め楠公関連の山城跡が残る “千早赤阪村(ちはやあかさかむら)” は大阪府唯一の村で、大阪府の南東端にある。公共機関で行く場合、隣町の富田林市か河内長野市まで電車で行って、そこからバスを使うことになる。正直かなり大変なので、車で行くことをオススメ。

kamiaka01-sということで、車でサクッと上赤坂城跡 登山口前まで移動。この石碑前に縄張図と、3台ほど車を停められるスペースがある。場所はここ[Googleマップ]

kamiaka02-s上赤坂城跡 縄張図。城跡までは一本道の登山道で、「一の木戸」跡から「四の木戸」跡(木戸とは城門のこと)を越えていく。本丸および二ノ丸までなら道が整備されているので普通に歩いても到達できるが、それらの周囲に点在する小さな曲輪や堀切を見ようとする場合、急斜面の植林や伐採跡、散乱する丸太を乗り越えていく必要があるため、軍手/ストック/トレッキングシューズ等の山装備が推奨される。所要時間も説明板にある片道20分では到底済まない(参考:今回は往復で2時間強)。

kamiaka03-s縄張図の横にある、赤坂城塞群 説明板。赤坂城塞群とは楠公が建てた千早赤阪村一帯の城の総称で、往時は前衛の下赤坂城、本城の上赤坂城、詰城の千早城の周囲を、多数の出城・砦が囲んでいたようだ。なおこの図に載っていない千早城跡は、一番下のNo.16国見山城跡(坊領山城)から更に1km以上南。

kamiaka04-sそれでは登城しよう。青い髪の”まさしげくん”看板は村内遺構の至る所に立っている。げんき! すてき! くすのき!  :^)

kamiaka04a-sこちらが登城口。左右に土塁があるので虎口かと思ってしまうが時代的にそうではなく、尾根道を掘って狭い城道にした「切り通し」スタイル。脇に上赤坂城跡に関する詳細な説明板が立つ。

kamiaka05-s上赤坂城跡 説明板。太平記によると、1333年、平野将監 (ひらの しょうげん) と楠木正季 (くすのきまさすえ、正成の弟) は、ここ上赤坂城で鎌倉幕府軍を迎え、糞尿戦法など奇策を駆使して戦ったが、幕府軍に水の手を断たれ落城した。城は戦国時代に改修されているようだが、鎌倉末期の遺構も残るという。ここには城の入口にあたる「一の木戸」が建っていた場所に当たる。

kamiaka06-s登城道。斜面を3〜5mほど掘削して道を通した、いわゆる「切通し(きりどおし)」で、迫力満点の山道だ。道沿いには地蔵なども並ぶ。

kamiaka07-sしばらくは切通しの山道が延々と続く。ある程度埋まっていると考えると、往時はもっと深かったのだろう。

kamiaka07a-s振り返って見てみると、左右が土塁のような形に見える。あの上に兵が潜んで登ってくる敵に矢や石を投げつけたのだろうか。もはや城壁。

kamiaka08-sしばらく進むと切通しが終わり、片方が斜面となったエリアに到達する。看板が立っている。

kamiaka09-sここは「二の木戸」跡。この切通しの山道は「城阪」と呼ばれるらしい。東側には「二河原辺城 (にがらべじょう)」、西側には「一番のきり城」、首切り場が見える… とあるが杉木が多くよく分からなかった。

kamiaka10-sまた切通しの山道へ。

kamiaka10a-s途中、巨大な岩石が露出した場所があった。天然の城壁として当時も活用されたことだろう。

kamiaka11-sまた切通しが終わったところで、看板発見。どうやら切通しの山道の切れ目ごとに、木戸(城門)を設けていたようだ。

kamiaka12-s「三の木戸」跡。この奥の、向かって左側が二ノ丸跡のようだ。

kamiaka13-s先ほどの説明板にあった「そろばん橋」。三の木戸までのエリアと、四の木戸(そろばん橋を渡ってすぐの場所)以降のエリアとを分断する大堀切に架かる橋のようだ。今は土橋になっているが、そろばん橋という名が示すとおり、往時は木橋(戦時は容易に切り落とせる)だったと考えられる。

kamiaka14-sそろばん橋を四の木戸側から見返す。ここの堀切は縄張図によると二重か三重になってたようだが、草木が生い茂ってよくわからなかった。

kamiaka15-s四の木戸の奥は道が曲がりくねった、いわゆる見通しの悪い「食違い虎口」的な様相だった。道が細い上に先が見えないと、攻め手にとっては結構怖い。

kamiaka16-s四の木戸および虎口を越えると、向かって左側の上部は二ノ丸曲輪群になる。ここからは登ることが出来ず、突き当たりから入って戻ってくる形になる。またこの付近は山道沿いに植えられた植林の根が露出していて、まるで巨大な恐竜のアバラ骨のような様相を呈している。

kamiaka17-sアバラ骨を越えると、いよいよ本丸と二ノ丸への分岐点へ。右へ進めば、茶碗原とよばれる曲輪を越えて本丸へ、左の細い登山道を登れば二ノ丸曲輪群へ。二ノ丸への看板は地面に置いてあるだけなので風雨等で移動しあらぬ方向を指し示していることもありそうなので注意。まずは本丸へ進み、周辺をひと通り散策してから、二ノ丸へ向かうこととする。

kamiaka21-s本丸方面へ進むと、山道の右手には広い平坦地が3つほど見られる。ここは「茶碗原」と呼ばれ、”千早赤阪の文化遺産”(楠公史跡保存会発行)によるとここは後世の改変を多く受けているものの、土器などの遺物が大量に出土したことから、往時も曲輪として機能していたのではないか、とのことだ。

kamiaka22-s茶碗原を越えると、再度 本丸への看板が現れる。少し先の杉木が途切れた先が本丸下の帯曲輪、その奥に薄く見えている一段高いエリアが本丸(千畳敷)だ。

>> 上赤坂城 [2/2] へ続く。<<

訪問時期:2013年9月
撮影機器:SONY NEX-C3
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上赤坂城 [1/2] 曲輪堀切など遺構がよく残る鎌倉末期の山城跡へ。” への1件のフィードバック

  1. 暑中お見舞い申し上げます。先ほどの高取城に続き、ついつい愚痴をこぼしてすみません。運営者の方がおっしゃる通り、千早赤坂本城よりは砦の遺構としてはこちらが面白いですね。

    ただ真夏の8月5日としては、千早赤坂城の560数段の石段=苦労して登っても遺構的には本当にがっかりですが。ただ地元の誇り:楠公さんの神社は手入れがされていましたが、本丸は何とかならんのか!城好きには憤懣やるかたなし!暑い中の登城に報いてくれる保存だったらなぁと。

    当然、この上赤坂城も未整備は1年以上過ぎるとさらに劣化。またこの訪問記は冬ですので、立木が冬枯れで遠方が見通しやすいのですが、真夏は樹々が生い茂り遠望は利きづらい点は私の事情で自業自得ですが。それにしても夏場は絶対登城してはいけませんよ!!千早赤阪本城はそうでもなかったのですが、ここだけは藪蚊の猛烈な襲来に閉口しますから。
    長袖&長パンツは当然、顔なども相当注意した服装での登城が必須。大学の先輩と二人、足腰の疲れを気にする以上に、やぶ蚊を払いつつの登城でしたので。・・・情けない話はここまで。

    運営者さんには自明のことと存じますが、実は本状を中心とした7つの砦を配置した楠木軍は、寡兵で大軍を1年以上引き付け、結果、多大な被害を与えて蹴散らせるゲリラ戦で勝利します。
    嶽山城、烏帽子形城、金胎寺山城、上赤坂城(=小根田城も含む)、下赤坂城(桐山城も含む)を配し、かの地の地形を巧みに分析して迎え撃った点はさすがですね。
    それどれの本丸や出丸から遠望すると、幕府軍の大群が要路を行軍し、どこどこに配置されて、どう攻め上がるかが手に取るように見えるのですから、改めて楠木正成の戦略に感心した次第です。地勢に疎い幕府軍はあの込み入った地形から攻め込んでも、大軍の利点はほとんど生かせず、強引に攻めれば自滅するだけだったのが理解できます。

    上赤坂城などごく狭い堀切を進む幕府軍に、投石~矢どころか糞尿をかけて悩ませたという・・・まさに”フン(?)だり蹴ったりな守り”で気勢を挙げていたとか。遠路、大軍をもって気楽に遠征してきた幕府軍は、さぞかし情けない戦いに嫌気がしたことと。増して当時でも藪蚊はふんだんに潜んでいたことで、我々と同じ悩みだったかと。野戦の長丁場は攻め手がくじけがちになる見本ですね。そういう感慨で終えた訪問でした。

    ただ最後もやはり、遺構整備を怠るな!!と行政へ訴えたい。楠公信奉で神社、顕彰碑、産湯の井戸など様々に保存はできているが、戦いの遺構として権力者とは別に、無名の多くの兵士が血を流しての勝敗の現場は、もう少し伝えられ方があろうものだと。看板一つ、道しるべ一つ工夫はいくらでも。またあの標識替わりか???陳腐な武者人形は恥かしいからやめてほしい。
    「 夏草や 強者どもが 夢のあと 」ではあるのだが、センスがひどい!!
    運営者さんのサイトをお借りして、行政サイドへの愚痴や批判で恐縮です。

    ではまた今度は楽しい報告をしたいと思います。いつもありがとうございます。合掌

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