宇陀松山城 (うだ まつやまじょう) は有力国人の秋山氏 (宇陀三将の一人) の居城に始まる。当時の呼称は秋山氏の城ということで秋山城と呼ばれていた。その後 羽柴秀吉の弟 羽柴秀長が大和大納言として大和一国を領有するようになる。それ以降 中世山城だった秋山城は石垣や虎口を持つ近代城郭へと改築され、福島正則の弟 福島高晴が城主となる頃までには総石垣造りの一大拠点となっていた。しかし福島氏は大坂夏の陣で内通の疑いにより改易、松山城も廃城となった。後に家康から大和国宇陀郡5万石を与えられた織田信雄 (信長の次男) は、宇陀松山初代藩主として拠点を山麓に移し、陣屋を築いた。
<基本データ>
●名称: 宇陀松山城 (Wikipedia) [別名 秋山城]
●所在: 奈良県宇陀市 (地図)
●築主: 秋山氏、福島高晴
●築城: 南北朝時代
●遺構: 石垣、空堀、土塁、大手門
●情報: 続日本100名城 No.166 (一覧)
<訪問記>
宇陀松山城跡は、奈良県宇陀市の中心部・近鉄 榛原駅(はいばらえき) から南へ6kmほど進んだ「大宇陀」という地域にある。公共交通で行く場合は榛原駅からバスに乗って道の駅「宇陀路大宇陀」まで行こう。
道の駅から道を挟んで向かい側にある旧街並をしばらく北上すると、宇陀松山城への登山道がある春日神社の参道がある。
こちらが春日神社の参道入口。薬の館 の少し北。
しばらく進むと、右側に大きな櫓台が見えてくる! 奥の石垣とセットで、見事な門跡だ。
櫓台は左右にあり、その中央に緩やかな石段。見るからに大手門という感じだ。
この石垣は旧 春日門の跡とのことで、説明板が建っている。調査の結果、先ほどの石垣は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の築造とのこと。門自体は16世紀末つまり福島氏の入城前後に建てられたようだ。非常に立派な櫓門だったようだ。
春日門跡を越えると、石鳥居に続く参道へ。左右は住宅街だが、その石垣がすごい。春日門の上は武家屋敷だったとあるので、武家屋敷跡にそのまま家が建っているのかもしれない。と妄想してみる。
春日神社。奥には石垣で一段高くなったところに赤い本殿が見える。まるで城だ。
春日神社 由緒書き。その名の通り、奈良 春日大社の勧進により建造されたという。宇陀松山城の縄張りを描いた16世紀末の古絵図にも記載があり、城へ向かう大手道が春日神社を経ていることから、城郭の一曲輪として機能していたと考えられるようだ。なるほど石垣が積まれた本殿も頷ける。
城郭の一郭として機能していた、という前置きを聞いてから見ると、まさに、お城! 超巨大な天守台あるいは本丸にも見えてしまう不思議。旅の安全をお祈りしていこう。
ちょっと変わった狛犬さま。立ち上がったスフィンクスみたい。毛が少ないからか。
山上の天守からの抜け穴が春日神社にあるという伝説。この穴がそうかも、と言われていたが、調査の結果 穴の中は埋まっていたとか。しかし破城の際に埋めた可能性も…と妄想。
さて春日神社はこれぐらいにして、神社横の道から山城へ向かう。史跡 宇陀松山城跡 ← という石碑も建っていて分かりやすい。
しばらく道を進むと、おもむろに道が曲がり山の中へと進んでいく。訪問日は2月の晴れの日、日が当たらないところは雪が残っている。
山頂へ向けてどんどん山道をあがっていく。途中「秋山城跡 ←」と書かれた看板が多数設置されている。地元の方にとっては豊臣以降の宇陀松山城よりも、地元国士で宇陀三将 秋山氏の城、ということだろう。地元愛。
植林による杉の木の成長っぷりがすごい。思わず何度も上を見上げてしまう。
杉エリアを越えると雰囲気が一変。道の左右を盛り上げたというより、空堀のように地面を掘って道を作った感じだ。切り通しとも呼ばれる。上から弓矢や投石が来たらひとたまりもない。
城跡に近づくと、大きな横堀が見えてくる。しかもまっすぐでなく、ジグザグに掘ってある(写真では分かりづらいが肉眼ではすごく立体的に見える)。すごい迫力。右上は”御加番”曲輪なのだが、この横堀が掘ってあるとさすがに登れない。ちなみに御加番とは、正規の守備隊に加勢して守備に当たる部隊のことを指す。
巨大横堀を越えると、緩やかな石段が見えてくる。ここからが圧巻の連続食い違い虎口。
福島氏改易後に破城されているため石垣は下部しか残っていない状態だが、それでも発掘調査により出てきた石垣を見せてくれているので、この迫力!往時は右に左に曲がりくねった大手口だったのだろうか。
ちなみに同じ場所を10月に訪れるとこんな感じだった。緑で美しい感じもするが、草で肝心の石垣や虎口の様子などがやや分かりづらい。それに虫や蚊も多い。
自然石を積んだのではなく、ちゃんと整えた石を積んだ打込ハギになっている。矢穴の跡もばっちり。往時はどれぐらいの高さがあったのだろうか。
2014年訪問時には無かった現地説明板は、2016年再訪時にはこの通り見どころに設置されていた。そのうちの一つがここ。ここは「南東虎口部」、古絵図には「大門」と記載されているとのこと。東西に櫓が建ちそれらを繋いだ巨大な櫓門が、400年前、ここにあった。
残念ながら石段の上の方はかなり破壊されてしまっていて、このとおり。
ビニールシートの見える石段の上が本丸。今居るところはその下の帯曲輪に当たる。
まずは本丸に上る前に、本丸をぐるっと取り囲む帯曲輪を散策する。左の丘の上が本丸。本丸と帯曲輪の間には、これまたぐるっと横堀がめぐらされている。これは攻めにくい。また破城により本丸の石垣は壊されているが、往時は当然ぐるっと全周を覆っていたのだろう。
帯曲輪の端から本丸および天守台の全景を撮影。左端に見える石段が本丸の入口。入口以外から上がろうにも、周囲をぐるっと横堀が巡らされているのが分かる。まさに山の上の孤島。
夏場はこの通り、全面的に草が生える。帯曲輪は全面 20-30cmの草で覆われている。色合いは美しいが、遺構自体は見づらくなる。草が枯れる晩秋から雪の降るまでの冬の訪問がオススメ。
本丸の丘の反対側へ回ってみる。本丸の北側から、東を見た図。切り株が並ぶ曲輪は”大御殿曲輪”。大きな屋敷が建っていたのだろう。あとで行ってみよう。
さすがは大和国3大城(大和郡山城、高取城、宇陀松山城)の1つ。見所が多い。まだまだ散策は続く。
>> 宇陀松山城 [2/2] へ続く。<<
訪問時期:2014年2月
撮影機器:SONY NEX-C3
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