伏見城 (ふしみじょう) は豊臣秀吉が太閤となった後に隠居城として建造した壮大な近世城郭。当初は指月山と呼ばれる場所に城が建てられたが、1596年の慶長伏見地震により倒壊、直後に近くの木幡山に場所を移して再建された。その二代目伏見城で秀吉は病没、2年後に起きた関ヶ原合戦の前哨戦で西軍に攻撃された際に焼失した。戦後 家康が再建(三代目伏見城)し、家光の時代まで使用されたが、1619年に京の城郭は二条城に集約となり、伏見城は廃城となった。秀吉の死去や家康・秀忠・家光の将軍就任など、戦国期の歴史的大イベントが数多く起こった場所として有名。全国各地に伏見城から移築されたと伝わる建造物(福山城 伏見櫓など)がある。指月山伏見城跡は住宅地となり遺構はほぼ地上に残っていないが、近年マンション建築現場の地下から指月山時代の伏見城の石垣が発見された。木幡山伏見城跡は明治天皇・皇后の墓所「伏見桃山陵」となっており、本丸など主要部は立入禁止。
<基本データ>
●名称:伏見城 (Wikipedia) 別名: 指月山城/小幡山城
●所在:京都府京都市 (地図)
●築主:豊臣秀吉 / 徳川家康
●築城:1592年 / 1596年 / 1602年
●遺構:石垣石、移築門
●関連:京都市HP
※ 伏見桃山城(旧 伏見桃山キャッスルランド)の訪問記はコチラ。
※ 2015年に秀吉築城の初代伏見城 (指月山) 石垣遺構が発見され、その現地説明会(6/20)へ行ってきました。現説参加レポートを御覧ください。
<訪問記>
まず木幡山伏見城跡である「伏見桃山陵」へ参拝、立入が許可されている参道沿いや遠景などわずかに残る遺構を見て、周辺に散在する伝伏見城の遺構を見て回ろう。
伏見桃山陵へは、京阪 伏見桃山駅〜近鉄 桃山御陵前駅〜JR桃山駅と繋がる東西の大手筋通をまっすぐ東へ向かうとたどり着ける。
JR奈良線の線路を越え、道が大きく右に曲がる箇所からが、伏見桃山陵への参道入口となる。右の石碑が目印。まるで明治神宮のような並木道。先ほどまでの住宅街の喧騒とは全く異なる雰囲気だ。ただしこの参道をまっすぐ進むと、陵墓の横道に到達してしまうので、正面から参拝すべく、ここで道を曲がる。
この曲がり角を右へ進む。左側の道が先ほど石碑があった通り。
道を進むと、南側にあの明治天皇に殉死した乃木将軍を祀った乃木神社が見えてくる。後ほど参拝しよう(伏見城跡とは関連が無いため写真掲載は無し。境内には軍艦の錨(実物)が展示してあるなど見所は多いので陵墓参拝の際は是非こちらも訪れて頂きたい)。
車道を離れてますます静かな空間へと繋がる。正面はもうすぐ。
こちらが伏見桃山陵 正面にある大階段。23段x10セット。かなり急なので注意されたし。
宮内庁の注意書きあり。
御陵前へと続く大階段。今上天皇もご参拝の折にはこちらの階段を登られるのだろうか。
230段の階段を上がりきると、この景色。伏見城は更に奥の山上にあった。天守の上からはさぞ美しい町並みが一望だっただろう。
そして正面に見えるのが、明治天皇陵墓。大鳥居の柵前まで行くことができるので、そこで参拝しよう。なお正月三が日はもう1つ奥の柵の前まで進むことが出来るとか。
大鳥居前。砂利が美しく整えてある。奥の山が、本丸跡。宮内庁の許可を得て調査を行ったレポートによると、現地には天守台など遺構がそのまま残っているという。
陵墓をズームアップ。陵墓があるあたりは、元 伏見城 本丸 南側の四の丸付近とのこと。奥の森の向こう側が本丸および天守台。現在は陵墓区域のため宮内庁管轄で一般立入禁止。Googleマップの衛星写真で見ると木が生い茂って完全に山に戻ってしまっているようだ(リンク)。
続いて東側にある伏見桃山東陵へ。昭憲皇太后が祀られています。
こちらが伏見桃山東陵。往時の名護屋丸、山里丸付近にあたる模様。発掘調査に基づく伏見城跡 縄張図は、京都府教育庁の文化財保護課HPにあるので参考にされたし(参考)。
参拝を終え、伏見城跡の散策へ。といっても陵墓のため立ち入りが出来る箇所が非常に限られており、城の遺構らしきものはほとんど見られない。この道は陵墓から西へ伸びる参道で、この上(右側)あたりに三の丸、二ノ丸、治部少丸(石田三成の屋敷跡か)などがある模様。
この参道の端には、伏見城石垣の残石が展示されている。石垣の多くは破城時に福山城や淀城へ移されたとあるため、それらの残りが城跡に散在していたものを、陵墓の整備時にここに移したのだろう。
伏見城の石垣石をつぶさに見る。矢穴のあとがしっかり残る石もある。
手前の石は中央がくり抜かれている。奥の石には刻印も見られる。
参道沿いには数十個の巨大な石が並んでいる。まるで恐竜の骨のような巨大な石につけられた大量の矢穴の跡。
見応え十分。陵墓周辺の本丸や天守台などの遺跡にもいつか立ち入ることが出来るようになれば嬉しい。
参道へ。まっすぐな杉並木が美しい。同じ明治天皇を祀った東京の明治神宮の参道を思い出す。
この参道(大手筋道)をまっすぐ西へ進むと、御香宮神社がある。そこにも伏見城の遺跡と思われるものが散在する歴史スポットなので、訪問してみよう。
参道にある御香宮神社の一の鳥居。大鳥居の周囲は駐禁なのだが、なぜか車が違法駐車され放題なのが残念。京都府警 仕事しよう。
御香宮神社 山門へ。何と、この門は伏見城大手門という。
門柱には、伏見城大手門の堂々とした看板がかかる。
御香宮神社 山門を内側から。鯱瓦も載る立派な門。
御香宮神社 参道。まっすぐ進むと拝殿だが、この参道沿いにも見所は多い。
まずは参道右側にある桃山天満宮。説明板によると、元々 木幡山の中腹にあったが、秀吉による伏見城築城(木幡山なので再建時か)に際し移築され、一時は城下町の加賀前田邸内に祀られていたという。
桃山天満宮 境内には、伏見城跡残石と書かれた看板と、乱雑に積み上げられた巨石が。前の石碑は伏見城残石に関する石碑かと思いきや、桃山天満宮の移設に関するものだった。残石を見てみよう。
伏見城石垣石の展示というよりも、陵墓の整備にあたって不要だった現地に散在していた伏見城石垣石をとりあえずここに持ってきて置いたという乱雑さ。それでも、矢穴跡や明らかに整形された跡が見られ、迫力満点。
そして参道沿いにも、このように伏見城の石垣石と思われる巨石がごろごろしている。すごい。
そして伏見といえば、秀吉/家康の伏見城だけでなく、幕末動乱の舞台でもある。坂本龍馬が襲われ九死に一生を得たエピソードで有名な「寺田屋」跡も伏見にある(現在の寺田屋建物は明治の再建とのこと)。鳥羽伏見の戦いの舞台でもある。その鳥羽伏見の戦いの記念碑が、御香宮神社の境内に建っていた。
伏見の戦跡 説明板。「である」調の文面。なんとあの佐藤栄作 書とある。御香宮神社の東の台地に陣を敷いていた官軍は、御香宮神社の向かいにあった伏見奉行所の幕軍に対し砲撃を行ったという。日本が近代国家に進むか進まぬかはこの一戦にあり、我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。と書いてある。
御香宮神社 拝殿。二条城唐門や日光東照宮にも通じるド派手な装飾が目を引く。
御香宮神社 本殿。説明板には、慶長10年 徳川家康造営、とある。秀吉が伏見城築城の際、城内に守護神として移築したが、家康により再度ここに戻されたとのことだ。
おまけ1:伏見町内には城下町の名残を残す町名がたくさん残っている。それを見ながら歩くのもまた一興。こちらは「松平筑前公園」。公園 という言葉と、松平筑前 という言葉のアンバランスさよ。
おまけ2:駅前にあった町内マップ。桃山羽柴長吉、桃山毛利長門、桃山福島太夫、など、当時ここにあった武家屋敷の名前がそのまま名付けられた町名に驚愕。ここに住みたい。
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なお、伏見城 御花畑山荘跡に建っている伏見桃山キャッスルランド跡地の大天守については、伏見桃山城 (キャッスルランド跡地) にまとめています。
2015年に発見された指月山伏見城 石垣遺構の現地説明会に行ってきました。レポートはこちら。
訪問時期:2014年2月
撮影機器:SONY NEX-C3
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