岩国城 [3/3] 撮影OKな天守内は刀剣具足が多数収められた博物館。

岩国城 訪問記 其の三。

[前回までの訪問記 概要]
錦帯橋を経て、山麓の武家屋敷群を通りぬけ、ロープウェイで一気に山頂部へ。北の丸散歩道で巨大な石垣跡を存分に見た後、主郭部へ戻り、復元天守台から復興天守へ。

訪問時期:2013年12月
岩国城 訪問記 − 其の一


<訪問記>

iwakuni50-s天守内部へ。オールドファッションな良い雰囲気の切符売り場にて入城料260円を支払う。錦帯橋とのセット券を買っていればそれを見せればOK。天守の中は刀剣や具足など文化財が展示してあるが「PICTURE ALLOWED(写真撮影OK)」の文字が嬉しい。

iwakuni51-s鯱瓦。説明がなかったので岩国城旧天守あるいは櫓のものかどうかは不明。

iwakuni52-s出土瓦展示コーナーの1つ。現地の説明板によると、予算が厳しい中での築城だったため、地元岩国で城のために造られた瓦だけでなく、泉州堺から購入したもの、近隣の寺院等からかき集めたものなどが混在しているという。写真の軒丸瓦は泉州堺から購入したもので、雲のマークをかたどっているのは火事除けの意味あいがあるという。

iwakuni53a-s錦帯橋の模型。縮尺1/50で、横4mぐらいある大きな模型。

iwakuni54-s天保十二年の銘がある刀剣。天保十二年=1841年。刀は詳しくないが、地肌の紋様がなんだかすごい。

iwakuni55-s岩国城天守 最上階の展望台へ。床に地図が描いてあるので、景色と見比べながら楽しむ。

iwakuni56-s岩国城天守からの眺望、錦帯橋方面。全長200mの巨大な錦帯橋も、ここから見ると実に小さく見える。空気が澄んでいると奥の瀬戸内海まで余裕で見えるようだ。

iwakuni57-s天守のふもとを見下ろす。左奥に旧天守台が見える。往時はどのような本丸だったのだろうか。

iwakuni58-s天守を降りて、二の丸方面から天守を見る。こちらは木々やライトがあり、天守の姿があまり綺麗に見えない。

iwakuni60-s天守の南側にある二の丸は東屋と石積みで回廊のような道が造ってある不思議な空間だった。こちらはその二の丸と天守の間ぐらいにある、大手門。と地図に描いてあるので大手門(跡?)なのだろうが、天守の立派さに比べて大手門が冠木門というのは何ともバランスがおかしい。

iwakuni61-s大手門を過ぎると、石垣に沿って石段が続く。このままロープウェイ乗り場まで続いているようだ。このあたりの石垣も恐らく現存だと思われる。

iwakuni62-s石垣の反対側は急な斜面になっている。立派な石垣や撮影に夢中になって危ない目にあわないよう注意。

iwakuni63mte-sそしてロープウェイ乗り場前まで帰還。前の広場にある「からくり時計」。さりげなく吉川家の家紋「九曜紋」が描いてある。数字板も漢数字だ。

iwakuni64-sロープウェイを降りて、先ほど訪問しなかった山麓エリアの北部を探索。内堀の向こうには、二層櫓が見える。内堀には鯉が住んでいて、鯉の餌を買って餌やりを楽しむこともできる。内堀にかかる石橋を渡って向こう側へ。

iwakuni66-s櫓の前へ。櫓というより絵馬堂だ。立て看板によると、やはりこれは絵馬堂「錦雲閣」で、元々ここには三層構造の「南矢倉」が建っていたが取り壊され、明治18年に一帯が公園および神社になった際にここに絵馬堂が建てられたとのこと。

iwakuni67-s大きな「元朝登城之図」が掲げてある。パンフ等にも載っているこの図、「元朝」とあるので一瞬中国かと勘違いしてしまいそうだが、これは「元日の朝(元旦)」という意味とのこと。明治初年の元旦に、そろって城主に挨拶へ伺う家臣たちの列を描いたものだそう。当時の御殿屋敷の様子が伺える。先ほど見た「錦雲閣」のあった場所は、図の左端の矢倉か。

iwakuni68-s元朝登城之図の横にあった岩国城の説明板。山麓の居館群は当時「御土居(おどい)」「御館(おたて)」と呼ばれたという。屋敷が御館で、その周りの曲輪や土塁等の普請部分が大土居か。御土居といえば秀吉の京都防衛土塁、御館といえば謙信死後の上杉家当主争いで有名な御館が有名だが、当時の一般的な呼称だったのだろう。ちなみに全国の土居さんはこれら土塁の近くに住んでいたか土塁を造った一族の出自だろうか、などと妄想する。図正面の大きな屋敷が「表御殿」、左奥が「御納戸」、山際には「御裏」があったとのこと。

iwakuni69a-s廃城後、表御殿跡に建てられた藩主吉川氏を祀る吉香神社の一の鳥居。かなり巨大な石鳥居。

iwakuni70-s一の鳥居の奥にある、神門前の二の鳥居。神門の奥に拝殿、本殿がある。

iwakuni71-s吉香神社 由来板。元々は享保時代に山上に造営されていたが、明治になって御殿跡を神社とするためここに移築されたとか。重文。

iwakuni72-sこちらが吉香神社 神門。軒中央に吉川氏の九曜紋が光る。

iwakuni73-s吉香神社境内を出て、東へ。西洋風の建物「岩国徴古館」を越え、吉川史料館へ。説明板によると、この建物および門が江戸時代の建造物で、7代藩主 吉川経倫公の隠居地として建てられた昌明館の付属長屋および門という(昌明館自体は明治期に解体)。訪問時にちょうどやっていた「特集 上月城と鳥取城の戦い」を見たかったが時間の関係で泣く泣くスルー。

iwakuni74-s吉川史料館を出て南へ進むと、刀を構えた青年の像が現れる。なんと佐々木小次郎像。巌流島で宮本武蔵と戦って敗れた、あの小次郎だ。吉川英治の小説「宮本武蔵」で小次郎が岩国の出身とされ、錦帯橋で燕返しを編み出したとあるため、銅像が建っているようだ。実際は、小次郎の出身は多説あり不明、しかも決闘時すでに60-70歳の高齢だったと想定され、さらに巌流島の戦い(1612年)の60年後に錦帯橋が完成(1673年)しており、岩国にまつわる小次郎のエピソードのほとんどは吉川英治の創作とのこと。

iwakuni75-s吉川経家公弔魂碑。吉川経家公は鳥取城が秀吉に攻められたときに毛利方から救援のため鳥取城に籠城した武将で、秀吉による兵糧攻めにより降伏、切腹した。なぜここに彼の碑が建っているかというと… ↓

iwakuni76-s吉川経家公弔魂碑 説明板。彼の子孫がここ岩国藩に仕え、その吉川氏の屋敷があったこの場所に、先祖を弔う碑を建てたとのこと。鳥取城の兵糧攻めによる城内の飢えは過酷を極めたと言われており、その凄惨さを見た経家公は、救援に訪れた臨時城主だったにも関わらず、敗戦の責任をとって城内の人の助命と引き換えに切腹したと言われている。また、石碑の下に敷かれている石は、鳥取城の石とのこと。

iwakuni78-s錦帯橋の城側すぐそばに、斜めに生える大きな松の木がある。説明板によるとこれは「槍倒し松(やりこかしまつ)」と呼ばれ、岩国武士の負けず嫌いを象徴する松とのこと。昔、大名が他藩の城下を通る時は槍を倒すのが礼儀だったのだが、大藩が小藩の城下を通る時は礼儀を無視して槍を立てたまま堂々と通ることもしばしばあったという。6万石の岩国藩武士がそれを見て憤慨し、わざと橋のたもとに横枝が成長した松を植え、槍を倒さないと通れないようにした、という言い伝えがあるとか。こういう由来は好きだ。この松は三代目で、初代の松の実から自生した樹齢300年の松とのこと。

iwakuni79-s槍倒し松の傍から見た錦帯橋。少し下から見上げると、アーチがより膨らんで見える。

iwakuni80-s錦帯橋越しに見る、遥か山上の岩国城天守。定番ショットで訪問記を締めくくる。

岩国城、復興天守ながら、北の丸の奥に眠る破壊を免れた長大な石垣や、外観復元ながら珍しい唐造の天守、写真撮影OKの天守内展示物など、錦帯橋以外にも見所が多い。またゆっくり来たい。

訪問時期:2013年12月
撮影機器:SONY NEX−C3
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