室山城 : 婚礼日に襲われた浦上氏 悲劇の城跡

室山城(室津城)は鎌倉末期〜室町期にかけて播磨を支配した赤松氏が建てたと考えられる。その後、山名氏を経て浦上氏が室山城を支配。やがて龍野城主の赤松政秀と対立し、浦上政宗は御着城の小寺氏と婚姻による同盟を図るべく黒田職隆の娘を姫として迎える。その動きを危惧した赤松政秀は、1566年(永禄9年) 、婚礼の日に室山城を急襲し、浦上政宗および姫は死亡、落城した。姫の死を悼んで室津ではひな祭りを半年延期し8月に行う「八朔のひな祭り」という風習があるという。(参考:西はりま観光HP)

<基本データ>
●名称: 室山城(別名 室津城)
●所在: 兵庫県たつの市(マップ
●築城: 赤松氏 / 浦上氏
●竣工: 鎌倉時代?
●遺構: 曲輪、土塁
●情報: しそうSNS


<訪問記>

室山城跡(室津城跡)は、兵庫県たつの市の南西端、瀬戸内海に面した岬の先にある。公共機関で行くにはかなり厳しく、山陽電車の最西端 山陽網干駅から、ウエスト神姫バスにて大浦行きに乗る。土日は1日5本なので時間を調べていかないと大変なことになるかも(参考:時刻表)。

murotsu01乗車時間 約25分、「室津」バス停で下車。降りると目の前に「室津の街並」という石碑と、いい感じの下りの石畳の道が現れるが、城跡はこちらではなく・・・↓

murotsu02その手前の、こっちの登りの道で城跡のある丘へと進む。

murotsu03道はゆるやかな登りになっていて、右側は住宅街、左側には播磨灘が見える。

murotsu04しばらく進むと右側に「室津二の丸公園」が出てくる。城跡に来たという感じ。

murotsu05公園入口手前には柵で覆われた、いかにも土塁な雰囲気の場所がある。看板には「室津調整池」とある。往時も水に関する設備(井戸? 溜池?)だったのかもしれない。などと思いを馳せながら二の丸公園へ。

murotsu06二の丸公園。遊具のほかは特に看板等も無し。

murotsu07二の丸公園の奥には、これまたいかにも土塁な雰囲気の場所がある。

murotsu08上にあがってみたが、特に何もなし。往時は見張りの櫓か屋敷でも建っていたのだろうか。

murotsu10さらに丘の上に向かって進んでいくと、道が左右に分かれる。地図を見るとこの先の中央付近に見える森が丘の頂上(つまり本丸跡?)で、左右の道はその周囲をぐるっと回って最終的に合流するようなので、どちらに進んでもOK。左へ。

murotsu11右側の丘の上には建物が見える。丘の上は今は住宅街になっているようだ。

murotsu11a道沿いにはこんな感じの土塁かもしれない丘の側面が野面積みな石垣で保護されていて、なかなかいい感じだ。

murotsu12丘の周りをぐるっと回ると、登りの斜面が出てくる。この上が本丸跡か。

murotsu13斜面の側面は下部がコンクリートで保護されているも、その上の土の部分にはこのように昔の石積みっぽいものが見える。写真では分からないが、上の奥の方にも石積みが確認できた。残念ながらこの土の部分には行けなかったので詳細を確認できず。

murotsu14丘への上への坂をあがると、突き当たりに「遠見番所跡」の石碑を発見。この奥の森は、先ほど下で石積みを見た部分の真上あたりだ。番所ということは、江戸時代に参勤交代で栄えた室津港の不審船などを見張る建物がここにあったのかもしれない。

murotsu15遠見番所跡の石碑の側面には「室山城跡」と刻まれている。やはりここが本丸跡で間違いなさそうだ。さらに上へ。

murotsu16丘の頂上へと進む道。左側は遠見番所跡の森だが、右側は曲輪(削平地)になっていた。一段低いところにあることから、ここに屋敷などが建っていたのかもしれない。

murotsu17丘の頂上へ。少し荒れ果てた感じの野原になっていた。ここが一番高いところなので、本丸跡だろう。ちなみに右側には住宅が建ち並んでいた(斜面の下から見えた家々)。この野原にもいずれは住宅が建ち並ぶのかもしれない。

室山城跡(室津城跡)の散策はここまで。せっかくなので、江戸時代に参勤交代の宿場町としてかなり栄えたという室津港および室津の街を散策してみる。

murotsu18街の街道へ降りる。石畳の細い道がずっと続いており、昔ながらの住宅も散見され、いい感じのひなびた街といった風情。また最近出来たものであろう、黒い石に周辺地図が刻まれた碑が街道沿いのあちこちに建っていた。これはかなり便利で分かりやすい。碑を参考に、江戸時代の本陣跡(本陣とは参勤交代の際に大名一行が泊まる宿)と、古い屋敷跡、賀茂神社、大坂城の石、というのを見に行ってみる。

murotsu19本陣 薩摩屋跡。駐車場になっていた。他に紀伊国屋、筑前屋、一ツ津屋、肥前屋、肥後屋の本陣跡がこの街道沿いで見られたが、すべて駐車場や空き地、住宅になっていた。姫路藩の御茶屋跡は市の出張所になっていた。

murotsu20a街道沿いにあった室津海駅館。訪問時点ですでに17時半だったので閉館していたが、扉前の説明板によると江戸時代の廻船問屋の脇本陣という。

murotsu20bもう1軒、海産物問屋の脇本陣を再活用した民俗資料館もあった。中はかなり立派な日本家屋のようなので、次回来ることがあればぜひ入りたい。(参考:Wikipedia

murotsu20c街道を進むと、分かれ道に出る。石碑によると、一層細くなる正面奥へ進むと大坂城の石、左へ曲がると賀茂神社のようだ。まずは神社から。

murotsu20d曲がったところに室津の観光案内板を発見。もっと手前に欲しかった。北を下に描いてある。先ほど訪れた室山城跡は図左側の小山で地図に記載があるが、左右の個別説明には無かった。

murotsu21賀茂神社 石鳥居。半島先端の山頂にあるので、この鳥居までは数十段の石段を登る必要がある。平安時代創建。

murotsu22石鳥居の先にあった立派な表門。平清盛 参拝の社という堂々たる看板が掲げてある。

murotsu23境内に入ると、立派な神馬が鎮座。葵祭で有名な京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の直系御厨(みくりや)とのこと。馬体の真ん中にある二葉葵は全国の賀茂神社で使われている紋で、あの徳川家の三葉葵の元になったという説もあるとか。

murotsu24賀茂神社 本殿の前に建つ唐門。本殿・唐門含め、付近の建物は国重文とのこと。説明板によると、江戸時代の室津は港町で栄えていたので参拝客も多く、医師シーボルトが訪問したときの絵画なども残るという。

murotsu25賀茂神社を出て、大坂城の石と書いてあった岬の先端へ。突き当たりに櫓台のような場所があり、龍福寺跡と石碑が建っているが、その裏側には湊口御番所跡、とあった。ここで江戸時代、湊に入ってくる船を監視警備していたということだろう。

murotsu26御番所跡の櫓台の手前は駐車場になっており、その脇に大きな切りだされた石(しかも矢穴跡つき)が2つ置かれていた。これが大坂城の石ってことか。

murotsu27石の前にあった「巨石の由来」説明板。秀吉の大坂城築造に向け、西国大名が運搬中にこの室津港で海中に落としたという言い伝えがあるという。これだけの大きさの石だとかなりの重さになるだろうが、西国大名は船でここまで運び、ここから大阪までは陸路と、すべて人力でこの巨石を運んでいたのだ。実物を見ると本当にすごい労力だと感じる。と同時に、ここまで来て海に落としてしまい名実ともに水の泡になった時のガッカリ感、今後課される仕置への恐怖を想像してしまう。

murotsu28湊口御番所跡から見る、室津港の様子。静かだ。右側の湾内には、多くの漁船が係留されていた。

訪問時期:2014年1月

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