丸亀城 [2/2] 三階建の天守の中には必見の変わり兜!

丸亀城 訪問記 其の二。丸亀城 [1/2] の続きです。其の一では、大手一の門/二の門、見返り坂、三の丸、二の丸、本丸と見てきた。其の二では天守内へ入り、そこから下りながら大石垣をじっくりと見ていこう。


<訪問記>

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いよいよ天守内部へ。天守の中は1Fのみパネル展示と古美術品の展示場所となっている。右側に気になる兜が見えるが、まずは天守を見よう。江戸時代に建てられた天守で、壁が白漆喰で塗ってはいるが、天井板もなく装飾も最低限の、戦いの城という雰囲気がある。

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2Fへの階段。まぁまぁ急だ。

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2Fへ。展示物がないのでライト等は設置されておらず、木戸周辺以外は昼間でも薄暗い。

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3F最上階へ。質素だ。

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お待たせしました。天守に展示されている変わり兜シリーズ。烏天狗形(からすてんぐなり)。

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変わり兜シリーズその2。鬼面形。アイーン。

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天守を出て再度外から眺めてみる。山の上に石垣を積み更にその上に3層の櫓を建てているので、かなりの高さだ。

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本丸から北を見る。瀬戸内海の島々を渡る瀬戸大橋が見える。

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本丸の石垣の一部は、盛られていた土が削れてしまって、こうやって中身が露出している部分があった。牛蒡積み(ごぼうづみ。石の長辺を中に埋める方法)のように見える。

marugame40二の丸へ戻る。本丸の北東端には国旗掲揚台があった。

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このあたりの石垣で刻印を発見。よく見ると結構あちこちにあった。

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二の丸の北側へ周り、二の丸搦手口へ。ここには往時、門があったようで門柱の礎石が残っていた。

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二の丸搦手口。すぐ左側の石垣は野面積みぽい雰囲気を出しているが、全体的には打込ハギ。

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二の丸搦手口を降りて、三の丸から本丸および天守を見上げる。石段のすぐ左に、段々になっている石垣があるが、往時は何があったのだろうか。

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少し西へ向かい、本丸石垣の角あたりから一枚。こちらに角にも隅櫓が残っていれば一層の威容だったろう。

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三の丸の端っこから、三の丸高石垣を見下ろす。下は林なので、三の丸高石垣の全容はこの上からしか見えない。写真に収まりきらないぐらいの高さ。今なお美しい曲線を描く様にも感動。

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もう少し角の方によってもう1枚。結構怖い。

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反対側を見る。三の丸のすぐ下にはパンフによると帯曲輪(細長い曲輪)があり、戌亥櫓跡などがあるようだ。

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二の丸の最も北側に突出した部分に建っていた長崎櫓跡。石垣の高さは12mあるという。

marugame50長崎櫓跡 説明板。石垣修理工事の際の断面図あり。排水を助けるという栗石が、石垣の裏側にビッシリつめ込まれている。

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長崎櫓横から、二の丸石垣を見る。

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三の丸北東部から、見返り坂を見下ろしてみる。向かいの櫓台石垣の修復しましたよ感がなんだか痛々しい。

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見返り坂を降りて、再度 山下曲輪まで戻ってきた。大手門へは戻らず、長屋や玄関などが残るという方面から出てみよう。

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山下曲輪では、大量に発生する落ち葉を清掃するスタッフの方が仕事をしていた。ゴーストバスターズのような機械を背負って強風で落ち葉をどんどん追いやっていく。おかげさまで今日も丸亀城はきれいです。おつかれさま。なお大手門がある曲輪と、屋敷群がある曲輪(この奥)との間はこのとおり土橋になっているようだ。右側の石垣の奥は内堀(ここだけ内堀が膨らんでいる)、左側の土塀の奥はあやめ池。

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こちらが玄関先御門。パンフによると、藩主京極氏の屋敷の表門で、この奥は現在は芝生広場になっているがそこは藩主の屋敷地だったという。この門に接して番所や長屋がある(門の向こうに見える)。

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玄関先御門を越えて、芝生広場へ。芝生広場からは本丸の高石垣および天守がよく見える。

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芝生広場の奥の土橋から内堀の外へ出て、周囲をぐるっと回りながら大手門前へと戻る。丸亀城内濠 という石柱があったので、天守・内堀とあわせて1枚。内堀沿いに一部土塀が復元されているところが、先ほど見た藩主玄関先御門 付近。

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内堀沿いの歩道には、丸亀城・藩主に関するさまざまな説明プレートなどが置かれていた(風化して読みづらいものもあり)。そのうちの1つ、3つの家紋について。右から順に、生駒車紋、扇文、平四ツ目紋。初代城主の生駒氏家紋である車紋は、瓦は見つかっていないが刻印が掘られた石があるという。真ん中の扇紋は生駒氏の次に讃岐に入った山崎氏の家紋で、発掘された瓦には扇紋があるものもあるようだが、現丸亀城に使われているものとしては無い。左端の平四ツ目紋が、現在残る天守・大手門等の建造物の瓦紋として使われているという。

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内堀外から見あげる丸亀城本丸・天守。あれだけの石垣の上に、1棟しか櫓が建っていないのはやはり物悲しい。

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少し角度を変えてもう1枚。石垣がへこんでいるところは土橋で、先ほどゴーストバスターズの清掃スタッフが居た所。左側の土塀が無い石垣の向こう側は、大手一の門の正面にあたる。

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本丸および天守を望遠で。小高い山の上に石垣と3重櫓が建つその姿は、街のどこからでも見ることができ、名実ともに丸亀の街のシンボルなのだろう。まったく主要部しか見ていないので、再訪必須!のお城です。

訪問時期:2013年12月
撮影機器:SONY NEX-C3
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丸亀城 [2/2] 三階建の天守の中には必見の変わり兜!” への6件のフィードバック

  1. 私の故郷の隣市がこの丸亀城のある丸亀市です。小さな天守閣ですが、これで十分すぎる平山城の高石垣の城でしょう。故郷へ帰るたびに特急の窓から見え、誇らしい限りです。二重櫓が江戸時代に11基あったそうです・・・幕府に提出した模型(=木型:他藩は、例え幕府といえども防衛上、絵図面での申告が当たり前の時に、丸亀藩は木型で申告したことで珍しいと伝わります)によると。現在は文化庁が明治期あたりでの写真がないと、復元の許可がおりないとか??四国一の公営ギャンブル丸亀ボートレース場があり、一時期相当財政が潤っていた時があります。二重櫓1基=約1億円相当でできるようですが、11億円があれば櫓を復元することで、歴史的価値の再創造と観光資源になったと悔やまれます。現在、資料を提出したら1000万円?市からお礼が出ます。城ファンとしては何とか全櫓が再現されることを祈るのみです。・・・蛇足ですが、旧大手門があった南側を下られたら、これもまた実戦を意識した巧みな虎口の連続と高石垣構造の面白さも伺えます。写真がなかったので、もしやそちらへ回られていなかったら?とふと思った次第です。四国が誇る名城です、ご紹介をありがとうございます。合掌

    1. 大西さま。
      コメントありがとうございます。丸亀城は現存天守もありますがやはり見どころはその下に鎮座する巨大な石垣ですね。まさに地元の方にとって誇りというのも頷けます。
      復元については国史跡の場合、中身の詳細(測量図面、設計図)、外観の詳細(古写真)が揃った状態で「完全復元」でないと変更の許可がおりないと伺ってますので、今となっては仕方ないと思います。せっかくの本物の石垣の上に、イミテーションが乗ってしまうと、魅力激減とは思います。その他、木造建造物は維持費も恒久的にかなりかかりますので、全櫓は難しいかもですが、メインのところだけでも復元は(史料が揃えば)ありかと思います。
      また城下については、こちらもツアー同行だったため、全く散策できていないのです。松山・大洲と合わせて、丸亀も再訪必須のお城だと思っています。またいずれ再訪した際は更に詳細のレポートを書き直しますので、ご期待くださいませ。

  2. 三の丸北東隅の補修された櫓台、旧陸軍がどこかの工事に石を使ったために長い間破壊されたままになっていました。その櫓台の麓の川石を嵌め込んだ石垣モドキも陸軍の作品でしょう(日本飛行機の父、二宮忠八が丸亀連隊の看護卒の頃、模型飛行機を丸亀城から飛ばしたというハナシが伝わっていますが、その連隊の仕業です)。二の丸搦手の城門跡から天守を見上げると、ちょうど石落としが防御できる位置に設置されていることが判ります。
    三の丸南方から西方にかけての石垣やその麓を支える帯郭の石垣、三の丸から搦手門に下る周辺の石垣の複雑さと、現在の大手側の見返り坂のあたりの簡単な動線を比較すると、丸亀城が本来は南大手だったことが納得できます。そう理解したあとで、本丸からの眺望を振り返れば、本丸の位置から南南西正面はるかに、讃岐山脈の切れ目(現在のJRがトンネルでぶち抜いている猪鼻峠)があるのが判ります。その少し東が長宗我部勢の侵入口です。讃岐山脈の手前、本丸から南南東には青山連山があり、その一番西の城山は長宗我部の侵略拠点となった西長尾城の跡です。さらに本丸から真西に見える山は戦国時代までの讃岐最大の城郭の一つ、天霧城跡です。天霧城に拠った西讃岐最大の豪族香川家が長宗我部元親の子供を養子に迎えて長宗我部と同盟したことが、長宗我部の讃岐侵攻の決定打になりました。香川家は、長宗我部とともに土佐に撤収しますが、一端、土佐勢が侵攻を再開した時には再び有力拠点として利用される恐れが強かったのが天霧城です。
    高松城では把握できない、長宗我部勢の再侵攻に備えて支城として築かれた丸亀城でしたので、生駒時代(廃城令以前)は嫡男が城主を務めるほど重視されていたのでしょう。廃城後、城下町は高松に移され(大手筋に直結する丸亀町)、建物も取り除かれましたが、石垣は利用できるように存置されていたと伝わっています。また、無闇にヒトが入り込まないように、石垣のヒト柱になった豆腐屋の怨霊伝説やら、石工の怨霊伝説やらが流布されたと云われています。

  3. 申し訳ありません。長宗我部勢の進入経路の六地蔵越えは猪鼻峠の西側でした。

    1. alfujitaさま、コメントありがとうございます。補修櫓台はそういう経緯でしたか。これだけキレイに残されている丸亀城で、この櫓台の石垣だけが大きく壊れていると目立ちますね。少しキレイな石で積み過ぎてて色の違いが顕著過ぎますので、少し色合いを合わせてもらえると、自然だったかと思います。城の大手が、本来の目的である長宗我部対策(南側)から、経済発展のための海運アクセス用(北側)に変更になったのも、時代の流れだったんでしょうね。

  4. お返事有り難うございます。
    生駒時代の縄張図を見ると、今よりも小さな郭が多数配置されていますが、本丸などの位置は基本的に同一です。ただ、天守は現在と違って本丸中央部に独立式で立てられていたようです。天守や大手の配置が現在のようになったのはおっしゃる通り、海路を重視し始めた山崎時代のようです。
    山崎時代以後の丸亀城は丸亀藩領の東北隅で、藩の治府としては破格です。旧生駒藩領を二つに分ける時に、丸亀城跡をどうするか幕府内部でも議論になったようですが「位置的に端になるけれど、大望を持った藩主であれば丸亀に知府を置くかも知れないので、丸亀藩領に入れておこう」という風な結論になったようです。実際に丸亀城から南に見える平野には高松藩領がかなり混ざり込んでいました。

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