松山城 [後編]

松山城 [前編] の続きです。

  • 前編・・・本丸石垣〜筒井門〜太鼓門〜本丸
  • 後編・・・一ノ門から本壇内部へ

<訪問記>

matsuyama35本壇入口の枡形から、一ノ門を越えていよいよ本壇内部へ。こちらが一ノ門。パンフ曰く、木割りも大きく豪放な構えとのこと。幕末1786年の天守再建時からの現存。横の立て札によると、昭和に入って4度修理されているらしい。

matsuyama36一ノ門を入ると、二ノ門までは四方を囲まれた枡形虎口となっている。また二ノ門は本壇石垣の上にあるため、枡形内部は石段になっている。一ノ門の左上にあるのは一ノ門南櫓、それに続く土塀は一ノ門東塀。どちらも現存、重文。

matsuyama36a一ノ門は高麗門形式で、石垣の間にはめられていることから、控柱の上の屋根も石垣の傾斜にあわせて斜めにカットしてあるところが細かい。また扉の上下が格子になっていて閉めていても外の敵の様子が垣間見えるようになっている。

matsuyama37枡形出口にある二ノ門。こちらは薬医門形式で、落雷焼失後、1854年に再建。同じく現存・重文。

matsuyama38二ノ門を裏側から。このあたりの建物は門も土塀もすべて現存だ。

matsuyama39二ノ門を出て突き当たりを左に折れると大天守奥の仕切門へ。こちらは二ノ門を出てすぐ左に折れると現れる三ノ門。左隣の三ノ門南櫓、および右隣の大天守から狙い撃ちできる構えになっている。一ノ門と同じく、控柱に小屋根を持つ高麗門形式。

matsuyama40三ノ門を入るとまた櫓と塀に囲まれた虎口に出る。三ノ門正面の櫓は三ノ門南櫓。写真右側の土塀は筋鉄門東塀。東塀の下はちょうど本壇入口。三の丸南櫓の屋根最上部の鬼瓦に、葵の御紋が見える。

matsuyama41三ノ門の次にある門が、この筋鉄門(すじがねもん)。柱を鉄板で補強してあるためこの名が付いたとのこと。筋鉄門の左側は大天守、右側が小天守で、筋鉄門の上の櫓は大天守〜小天守間の通路となっている。なお大天守を除き、ここから先は昭和8年の放火で焼失しており昭和後半の復元。

matsuyama42松山城は大天守、小天守、2つの隅櫓をそれぞれ渡櫓で繋ぐ連立式天守となっている(姫路城などと同じ形式)。こちらは筋鉄門から見た天守建造物群、左側が北隅櫓、正面右の門が内門、右端は大天守。

matsuyama43こちらは内門から見た筋鉄門および小天守。小天守は二重二階だ。

matsuyama44北隅櫓には、唐破風の屋根を持つ玄関がある。往時はここから入城していたのだろうか。屋根の下の懸魚や上の鬼瓦には「葵御紋」が見える。

matsuyama45大天守へは、大天守の石垣の一部に開けられた鉄門から入城する。立て看板によると、この石垣内部(大天守の地下1Fにあたる)は穀倉(米蔵)で、湿気を避けるため床に素焼きの煉瓦を敷くなどの工夫がなされているとのこと。また大天守の石垣はしっかりと切り揃えられた石材を用いた切込ハギとなっている。

matsuyama46大天守の中へ。1Fから小天守を含め繋がっている各櫓内をぐるっと回る事ができるようだ。なお描いてないが小天守の2Fにもちゃんと上がることが出来る。

matsuyama47天守内には加藤氏および松平氏にまつわる貴重な品々が展示されている。こちらは加藤嘉明公が着用したと伝えられるという具足「漆塗仏胴六間草摺素懸威鎧」。うるしぬり ぶつどう ろっけん くさずり すがけおどし よろい。具足の名称は、それぞれのパーツごとの特徴をそのまま表現したものを組み合わせているためこのように長くなる。

matsuyama48加藤嘉明公着用の証拠の1つとして、背中に旗指物(はたさしもの)を挿す受筒(うけづつ)が付いていることがあるという。横から見ると、確かに受筒が、ある!(現地ガイド氏が特別に裏側を見せてくれました。普段はこの位置には入れません)

matsuyama49渡櫓から小天守へ向かう通路の傍らに、三葉葵と星梅鉢の両方の家紋が入った大きな箱があった。これは「長持(ながもち)」で、参勤交代などの際に衣服などの調度品を入れて運ぶための収納具(棹を通して2人で運ぶ)とのこと。現地ガイド氏の話によると、星梅鉢は松山松平家の旧姓・久松家の頃の家紋で、江戸方面を三葉葵、松山方面を星梅鉢にして運んでいたとのこと。

matsuyama50小天守に展示されていた「侍の似顔絵入りの板」。平成16年から行われた平成の大修理の過程で、大天守2Fの下見板張りの裏側で見つかったとのこと。江戸時代の大工の落書き!きっとクドクドと小うるさい侍奉行を描いたのだろう。おもしろい。

matsuyama51江戸末期の天守再建の際に、しゃちほこ瓦の形を決めるために作られた雛形。

matsuyama53小天守1Fの様子。小天守は昭和後半の再建だが、階段は急。

matsuyama54小天守2F。梁には、どこで使うのかを示したと思われる墨書きが見える。

matsuyama54a小天守2Fから南側本丸方面を眺める。

matsuyama55aいよいよ大天守へ。戦いのための施設であるはずの天守には珍しく、畳の部屋や床の間、ふすまを入れるための敷居もある。

matsuyama55b大天守2F。こちらにもふすま用の敷居が見られる。

matsuyama56a大天守 最上階へ。天守には珍しく天井板がしっかり付いている。逆に、豪快な梁が見られないのが残念。

matsuyama57大天守からの眺め。

matsuyama58現地ガイド氏の説明で、大天守の床に注目する。話によると、大天守には江戸時代の再建時に使われた「和釘」と、昭和以降の補修工事の際に一部使われた洋釘(現代釘)とが混在しているという。左側が和釘、右側が洋釘。和釘は純度が高く形状も特殊で作るのが難しくコストも高いが、耐久性が非常に高いという。そういえば大洲城で和釘が売られていた、確か1本1000円ぐらいしたような…。

matsuyama59天守の外へ。すでに時間は16:40、閉門時間を過ぎており、我々が出たときには既に閉門。脇戸から出るという貴重な体験。こちらは大天守の北隣にある、内門。

matsuyama60三ノ門も出ると同時に閉門。

matsuyama61そして一ノ門も閉門。閉門姿を見ることが出来たが、西日で赤い。

matsuyama62本丸より、西日で赤く染まる本壇および天守建造物群を見返す。

matsuyama63もう少し引いてもう1枚。正面にあるベンチで城とともに記念撮影も忘れずに。

matsuyama64ロープウェイ乗り場で、下りエスカレータの横に鯱瓦を発見。説明板によると、これらは古い大天守の鯱瓦で、口を開けた阿形は南側、右側の口を結んだ吽形は北側に設置されていたとのこと。阿形は刻印から大正年間に作成されたもの、吽形は刻印が無いが風化度合いから阿形より更に古いもののようだ。ちなみに今の大天守に乗る鯱瓦は平成18年に新調したもので、天丸(阿)とまつ姫(吽)という愛称まであるらしい。

山の上に巨大な本丸石垣が残り、また大天守を含む建造物が多数現存する広大な松山城。今回は1時間しか時間がなく現地ガイド氏によるポイントを押さえた最低限ルートでの観覧だった。ガイド氏曰く今回の観覧ルートでも1時間半は欲しいところとのこと。ほかも回るなら1日仕事か。見所は他にも、登山道から見える(※夏場は樹木繁茂で見辛い)という長大な登り石垣、屏風折れの本丸石垣、乾櫓などの搦手防衛ライン、二の丸史跡庭園、砲台跡などの高石垣、三の丸堀之内に残る門跡や堀などなど、まだまだ見るべきポイントが残っている。伊予松山は遠いけど、いつかリベンジしたい。(道後温泉とセットで…)

訪問時期:2013年12月

 

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