松山城 [前編]

関ヶ原で功績を挙げた加藤嘉明は家康より伊予20万石を与えられ、居城として道後平野の中央にある勝山に新たに松山城を築く。加藤氏は20年かけて5重の天守を持つ城を完成させた。藩主が松平氏に変わると天守は3重に改変され、その後落雷で焼失するも、幕末の1854年に天守を再建。当時幕府は天守の再建を認めていなかったが、松平氏が家康公の弟の家系であったことから特別に認可されたという。現存天守で唯一、瓦に葵御紋を持つ。

matsuyama_cover<基本データ>
●名称: 松山城
●所在: 愛媛県松山市(マップ
●築城: 加藤嘉明
●竣工: 1627年(寛永4年)
●遺構: 大天守,櫓,門など重文21棟が現存
●情報: 松山城公式HP松山市HP

<訪問記>

ぐるっと四国一周バスツアー 5城目は、大洲城から松山自動車道を北へ約1時間、山頂に大天守など建物が多く現存する「松山城」。松山城は海抜132mの勝山山上にあり、山上までは幾つかある登山道か、ロープウェイあるいはリフトを利用する。

matsuyama00現在15:30。天守の札止め時間(16:30)も迫っていることから、ロープウェイで一気に登る。ここがロープウェイのりば。天守観覧券とロープウェイ往復券のセットで1000円。結構高い。10分に1本あるので適当に行ってもOK。乗車時間3分。次来たときは登り石垣を見るため登山道から登りたい。

matsuyama01松山城 全体マップ。ロープウェイでは山上にある本丸石垣の真下まで一気に行けるようだ。麓の二の丸は史跡庭園。

matsuyama03ロープウェイで山上であがると、長者ヶ平という曲輪へ。松山城への誘いという巨大な説明看板があるが、かなり大きく、また字が小さいので、たいへん読みづらい。同行の現地ガイド氏が内容を説明してくれた。

matsuyama04長者ヶ平からまっすぐ奥へ進むと、いきなり高石垣が見えてくる。本丸の周囲をぐるっと囲む高石垣だ。かなり圧巻!

matsuyama05石垣の上から下までを写真に収めるのはかなり難関。後ろに下がって何とかぎりぎり撮影。打ち込みハギでビッシリ積まれた美しい石垣。

matsuyama06櫓の下の石垣は垂直に折れ曲がっている。石垣上の土塀(鉄砲狭間など)からは真下の石垣に張り付いた敵を狙えないが、垂直に折れ曲がった部分があるとそこから狙うことが出来るため、近代城郭の石垣は大抵こういう飛び出した部分があることが多い。

matsuyama07松山城の石垣に関する説明板。なかなか細かく説明がしてある。加藤嘉明築城時の石垣も一部現存しており、北部に残る傾斜の緩やかな石垣がそうらしい。今目の前にある急傾斜の石垣は江戸時代の構築とのこと。また、江戸末期の天守再建の際に積まれたと思われる切込ハギの石垣も、天守のある本丸奥の本壇部分に見られるという。

matsuyama08鈍角に折れ曲がる石垣。角がビッシリ揃っている。右上に見える櫓は隠門続櫓の先端。

matsuyama09水がしたたり落ちた痕跡がしっかり残っている。排水に含まれる不純物が乾燥により石垣にこびりついたのだろうか(白い部分)。

matsuyama11奥の小さな石垣は揚木戸門跡。説明板によると、築城時に建てられた門の1つで、大手門とともに本丸大手の入口を固める重要な門の1つとのこと。手前の礎石内のスペースは待合番所跡。長者ヶ平方面と二の丸方面からの登城道が合流するこの地点に警備のために兵士3人が常時詰めていたという。

matsuyama12いよいよここから本丸へ向かう道となる。正面に見える櫓は本丸に建つ太鼓櫓だが、そこに到達するまでにはまだ幾つもの門を越えなければならない。奥に見えるは大天守。写真の左側は二の丸に続く大手門跡となる。

matsuyama13本丸に向かう前に、西の大手門跡をチラ見。厳重な石垣と門とに守られた防御の要だったのだろう。残っていないのが非常に残念。

matsuyama14大手門跡から見上げた、本丸最南端の石垣。そびえ立つと言う表現がぴったりだ。

matsuyama15本丸へ向かうべく、まずは太鼓櫓の下へ。櫓の角には石落としが見える。このまままっすぐ進んでも本丸へは到達できず、ここで180度道が折れ曲がってまた南へ進むこととなる。

matsuyama16折れ曲がった先にある戸無門(現存)。パンフによると鏡柱にも門扉をつけた跡が一切ないとのことだ。

matsuyama17戸無門 説明板。寛永〜正保年間の建立とのこと。

matsuyama18戸無門を裏側から。控柱の上に小さな屋根を取り付けた「高麗門」様式。

matsuyama20戸無門を過ぎると、大きな櫓門が現れる。松山城最大の門「筒井門」で、パンフによると築城の際に正木城から移築されたと伝えられるらしい。

matsuyama21筒井門 説明板。と思いきや、隠門 説明板になっている。実は大手からの敵を倒すため、筒井門横の石垣の奥には隠門と呼ばれる文字通り「隠された門」があるという。筒井門は昭和24年に放火で焼失しその後再建したものだが、隠門は慶長年間の築城時からの現存。焼失前の筒井門の棟木裏には墨書きで正木城より移設された旨の記載が残っていたという。

matsuyama19筒井門を引きで見る。筒井門横の石垣の奥に、確かに小さな隙間が見える。行ってみよう。

matsuyama22こちらが埋門(うずみもん)様式になっている「隠門」。筒井門を必死で攻める敵を、こちらから回りこんで撃退するという。脇戸は無く、代わりに門扉に小さな潜戸(くぐりど)が付いており、有事の際は扉を開けなくても潜戸から兵士を繰り出すことが出来るようになっている。

matsuyama23隠門を通って奥へ。隠門の上の渡櫓は隠門続櫓。続櫓から真下を見ると、ちょうど揚木戸門にあたり、門の警備にこの隠門続櫓が使われていたようだ。

matsuyama24隠門続櫓 説明板。隠門と同じく、続櫓も慶長期の創建。当時の技法が残る貴重な建築物とのこと。

matsuyama25筒井門/隠門を越えると、次に現れるのは太鼓門。こちらは内側からの図。ここを越えると本丸で、本丸に至る最後の砦となる。先ほどの筒井門に負けず劣らずの立派な門だ。

matsuyama26太鼓門 説明板。筒井門/隠門が第1防衛線とすると、この太鼓門とその周囲の櫓・塀は第2防衛線となる。米軍による無差別爆撃で焼失したため、現在の太鼓門は昭和47年に復元されたもの。

matsuyama27太鼓門を越えると奥に見えるのは太鼓櫓。先ほど本丸に向かう途中、大手道の正面上に見えた櫓だ。

matsuyama29そして本丸へ。本丸は長い直線の広場となっていて、奥には本壇と呼ばれる石垣の上に建てられた大天守・小天守などの建物群が見える。なお写真右側には(写っていないが)井戸もあり、深さが44mもあり当時の技術では掘ることが出来ないが、言い伝えによると本丸は南北2つの峰を埋め立てて作られており、その谷底にあった泉を井戸として残したという。説明板によると、戦前までは釣瓶が付けられていて冷水を汲み上げて自由に飲むことが出来たという。

matsuyama31本丸に立つ、本丸および本壇の巨大説明板。本丸は南北300m、東西30〜180mという全国有数の巨大さとのこと。また本丸の周囲を固める石垣は、10mを超す高石垣と、屈折が連続する屏風折れになっている。今回はすんなり本丸に上がってしまったが、次回は本丸石垣の周囲をぐるりと廻って石垣もしっかりと見てみたい。本壇は、本丸より更に8m高く石垣が積まれ、天守台は切込ハギで4mの高さがあるという。なお、本壇上に建つ建造物のうち、大天守など主に向かって右側に建つ建物群が現存で重文、小天守など左側に建つ建物群は昭和8年に焼失したため復元とのこと。大天守が燃えなくて良かった。繋がっているのによく残ったものだ。

matsuyama32いよいよ本壇へ。本壇へは、南側のこの入口からしか入れない。正面の塀は紫竹門東塀で現存、重文。紫竹門自体はこの塀の向かって左側下部にあり、本丸北西の乾門方面から本壇へ向かう際に通る門。正面に見える3重の建物は小天守、その奥は南隅櫓。

matsuyama34正面を向くと、大天守の姿が見える。右奥に一ノ門があり、左に小天守、正面に大天守、右に一ノ門南櫓という三方を囲まれた枡形を越えなければならない。かなり強固だ。左側の石垣に見られる黒い跡は昭和8年に小天守が焼け落ちた時のものか。

そして、一ノ門から二ノ門、三ノ門を通り、大天守へと向かう。

>> 松山城 [後編] へ続く。<<

訪問時期:2013年12月

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中