富山城 [2/2] 模擬天守内は富山愛あふれる良質展示がズラリ!必見!

富山城 訪問記 − 其ノ二(全二回)。
Link: 富山城

[概要]
富山駅から歩くこと10分ほど、搦手口方面より本丸跡へ。現存する数少ない富山城建造物の1つ赤門から入城。本丸内は公園と化していて、遺構は少なく、かつて富山城の石垣を構成していた石材が点在して展示されている状況。本丸南側にはかつての正面だった「大手門」跡の虎口がしっかり残り、その石垣の上には現在の富山城の顔とも言える模擬天守が建つ。Part2ではその模擬天守の内部へ。


<訪問記>

toyamamu01-s富山城模擬天守 郷土博物館 の説明板。昭和29年製のこの建物は、戦災復興のシンボルとして彦根城や犬山城を参考にして建てられたまさに美の殿堂というべき美しい雰囲気を持っている。戦後の模擬天守にも関わらず国の登録有形文化財に登録されているのも見逃せない。

toyamamu02-s中に入るとまず出迎えてくれるのは、昭和29年に建てられた初代模擬天守の上に乗っていた鯱。越中瀬戸焼とのこと。彫りの深いその目は富山の戦災復興を60年近く見つめているということか。なお入口の方の説明によると、展示物はフラッシュを焚かない限り、すべて撮影OK。現場でじっくり読んで、帰ってからも読み返し、その地の文化や歴史をちゃんと理解しようという気にさせる。この方針には大賛成。

toyamamu03-s1Fで入城券 (200円) を買ってから2Fへ上がる。千歳御門の江戸時代に焼かれた赤瓦が展示されている。

toyamamu04-s説明板。千歳御門は珍しい三枚重ね(通常は二枚重ね) とのことで、雪の多い富山ならではの耐久策ということか。瓦の名称はそのまま丸瓦、平瓦、先端は軒丸瓦、軒平瓦。総本瓦葺きということで屋根に乗る瓦は約3000枚、8.6トンだとか。すごい! 平成20年になって今の場所(城址公園の東側)に移されたという。

toyamamu05-s富山城で使われていた、梅鉢紋のある軒丸瓦。

toyamamu06-sここからはパネル展示。神保家の築城から前田家の管理時まで多くのパネルでしっかりと説明されている。館内は薄暗いライトで照らされているが、写真撮影には支障なし(フラッシュはNGなので手ブレに注意)。神保氏の作った中世富山城は絵図も文書もほとんどなく謎とされてきたらしいが、次のパネルで「富山之記」を細かく読み取り謎の中世富山城がどんなだったかを解説していた。マニアック。

toyamamu07-s神保氏築城の頃は、越後からは上杉謙信、甲斐信濃からは武田信玄、越前からは一向一揆と、周囲の大勢力が富山を奪い合うそんな時代だった。上杉・北条・織田に囲まれた、武田家滅亡後の真田家の状況に似ている(しかし結果は大違い)。

toyamamu08-s当時の勢力状況。1572年といえば信玄も謙信も存命で、まだまだ信長の勢力はそれほど広まってはいない。

toyamamu09-sしかし1573年信玄没、78年には謙信が没すると、富山は信長のものとなる。信長重臣の佐々成政が富山城に入城するも、本能寺の変で信長が没し、代わって台頭した秀吉は成政と対立、秀吉は大軍をもって富山を攻め成政は降伏、富山城は廃城となってしまう(1回目)。

toyamamu10-sその頃の様子。信玄没後、武田家は信長に滅ぼされ、上杉家も越後に閉じ込められている。まさに信長の天下統一直前という感じだ。しかしここでマサカの「本能寺の変」が勃発、織田領は重臣たちにより分断され、また血で血を洗う争いが始まることとなる。

toyamamu11-s変わって江戸時代。正保4年に幕府の命で全国の大名たちが描いたという有名な「正保城絵図」から、富山古城絵図が巨大なパネルで展示されていた。こちらは本丸付近を激写。おもしろいのは、内堀・外堀の周囲の土塁(緑の枠)の上に草が生えていて、当時から土塁は既に草ぼうぼうだったことが伺える。また二の丸から本丸へ渡る虎口の石垣も崩れたような描き方をされている。戦国の世が終わり、まだこの時点では本格的な城郭修理が行われていなかったことを示しているようだ。

toyamamu12-s佐々成政を追い出して富山を掌握した秀吉は、家臣の前田利長を富山城へ入れ、城郭を再整備させる。それが上記の「正保城絵図」に描かれた近世富山城の基本形となる。しかし徳川の世になってすぐ、元和元年(1615)の一国一城令で富山城はまた廃城(2回目)となり、荒れ放題となってしまった。

toyamamu13-sそして時は過ぎ、今度は加賀藩から分藩される形で新たに「富山藩」が成立、晴れて富山城も復活と相成った。初代藩主として前田利次が入城し、城郭整備と補修を開始する。しかし広大な敷地にも関わらず天守や櫓は建てられず、櫓門も1つだけの再建だったという。もはや時代的に天守は必要とされず(コスパも悪い)、御殿を中心とした政治拠点としてのお城ということだろう。

toyamamu14-s興味深かったのは、近隣の著名な平城の縄張りの広さを簡易比較した、この図。巨大と思われている大坂城と一見マイナーな富山城は、その縄張りにおいては対して規模が変わらない事がわかる。当時の城は(江戸城を除き)どこも同じような規模だったということか。

toyamamu15-s展示コーナーの中央には大きなケースに入った富山城の巨大ジオラマがある。ジオラマ自体には着色されておらず、数分に一回、プロジェクションマッピング的な映像が投影され、時代により縄張りが変化していく富山城の様を体感できるという、実に面白い仕掛けになっている。上記は最終的な近世富山城の姿。天守はなく、虎口付近以外は土塁で、まさに大きな堀に浮かぶ御殿群という感じだ。赤門が残る千歳御門は写真右端。この模擬天守は正面中央に見える土橋の先の虎口のところ。そもそも何も載って無かった石垣の上にこの模擬天守を建てたようだ。

toyamamu16-s城址公園内に残る遺構一覧。南側の内堀の一部、主に二の丸側の土塁、本丸枡形虎口と周囲の石垣はすべて当時の遺構とのことだ。上記のオレンジで示されているとおり、千歳御門の南側の石垣は遺構ではなく新設。そしてかつての二之丸と本丸がくっつけられてしまっていることもよく分かる。

toyamamu17-s石垣に残る多数の鏡石や刻印についても写真入りで説明されている。

toyamamu18-s郷土博物館の最上階(望楼部分)は展望台になっている。大手枡形虎口の櫓台を上から見下ろす。礎石的なものもいくつか残っているようだ。この上にも何か建てるのだろうか。

toyamamu19-s内堀を渡る土橋。

なかなか見応えのあった富山市郷土博物館。富山愛にあふれた内容に感心。また写真撮影OKとのことで帰ってじっくり読み返そうという気がおき、富山の歴史をよく理解できた。文化財はともかく、パネル展示や模型などはこうあるべき。

天守の無かったお城に模擬天守ということで主に歴史ファン(史実ファン?)から批判を見かける富山城。個人的には遺構をうまく利用し、戦後すぐから60年間も富山の街のシンボルとして市民に愛される施設にうまく転換できた好例だと感じた。きれいに整備されている状況も良い。工事中の庭が完成したらまた訪れたい。富山バンザイ!

訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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