小谷城 [3/3] 谷沿いの重臣たちの屋敷跡にも巨大石垣が多数残る

小谷城前回(Part2)までの小谷城訪問記。

長政公が自刃した赤尾屋敷跡、巨大な門跡が残る黒金門跡などを通り、巨大石垣が残る2スポット、天守台下と山王丸東斜面下へ。

Part3では山王丸から清水谷へ抜けて下山します。


<訪問記>

odani58-s山王丸の北奥の曲輪。ここにも何か屋敷があったのだろうか。中井先生監修の復元縄張図には何も無かった。

odani59-sここにも石垣跡が残る。天守の石垣跡と同じ、小規模なものだ。

odani60-s一番奥は一見行き止まりのようだが、草の間から六坊跡〜清水谷へ抜ける山道がある。これが搦手口か。端っこに行って覗き込んでみよう。

odani61-s搦手口から六坊へ向かう山道。写真ではわかりにくいが、岩がごつごつしていて滑りやすく、また角度も急なので慎重に進む必要がある道だ。

odani62-sしばらく進むとまた開けてきて「六坊跡」へ到着。縦に小さな曲輪が連なるようだ。六坊という名前から、6つのお寺が建っていたのだろうか。

odani63-s六坊 復元縄張図。領国内の有力寺院をまとめた場所だったという。南側(六坊の入口付近)には石垣が見られると記載がある。見逃した。少し戻って確認。

odani64-sこちらが六坊入口の石垣跡。草で見えにくいので初見時は気づかなかった。これも枯葉を整理したらもう少し出てくるかな?

odani65-s六坊奥に行くと道が3つに分かれる。正面の急な階段をあがると大嶽(おおずく)方面へ。右奥は月所丸へ。左は清水谷へ。大嶽は小谷城の戦いに際して援軍を出した朝倉方が陣を敷いた砦跡で、小谷山の隣の山頂に前線基地として配置していたが、暴風雨に紛れた織田軍の急襲により陥落。その後 朝倉方は撤退中の追撃により大打撃を受け(刀根坂の戦い)、織田軍は勢いに乗って朝倉本拠地の一乗谷まで攻め入り城下町は炎上、朝倉家は滅亡した。今回は時間の都合もあり大嶽砦には登らない。

odani66-s清水谷から下山する前に、まずは更に北側の「月所丸」へと向かおう。月初丸へは急峻な崖に囲まれた、かなり細い山道を抜けていくことになる。資料によるとこの道は越前まで続く「けもの道」であったという。忍びが通るケモノ道〜♪ と口ずさみながら歩くと怖く無い。

odani67-s途中、岩が大変な状態でせり出していた。

odani68-sこちらが「月所丸」跡。縦に長く複数の曲輪が連なる、城の北側を守る曲輪だったようだ。

odani69-s月所丸 復元縄張図。最初の曲輪のすぐ北側に畝状堀切があったようだが、枯れ葉が積もっておりあまり分からなかった(写真では更に分からず)。奥のほうには土塁や堀切もあるようだが、あまり人が来ないのか樹木が生え放題だったので、探索はここまでにして清水谷へ引き返す。

odani70-s分岐点へ。この先が清水谷。ハイキングコースのようで、きれいに整備されている。

odani72-s清水谷には代々の浅井家重臣だった家臣たちの屋敷があった。最初に出てくるのは土佐屋敷跡。重臣「大野木 土佐守」の屋敷とのこと。石垣を二段に設けているという。看板の脇から奥へ行ってみる。

odani73-s見事な石垣!城は破却されたようだが屋敷跡はそのままだったのだろうか。この上に屋敷が建っていたのだろう、これは是非上も見ようとしたが、登り口が分からず断念。

odani74-s土佐屋敷跡から更に谷を降りると、次に現れるのは「三田村屋敷跡」。重臣「三田村 佐渡守」の屋敷跡とのこと。なぜか三田村邦彦の顔が思い浮かぶ。ここも谷側に石垣を設けていると説明板に記載があり、ここからも上の方にちらっと見えている。

odani75-sかなり急な斜面の上にあるので見づらいが、確かに石垣の壁が見える。登るのはちと大変そうだ。

odani76-s石垣跡など見所がある屋敷跡はこれぐらいだが、屋敷跡の他にもいろいろ清水谷沿いには見所がある。こちらは「蛙岩」。トノサマガエルが座っているように見えなくもない?

odani77-s水ノ手。ここを登ると、先ほど訪れた京極丸の枡形虎口へ直結する。秀吉はここから登り京極丸を占拠、小谷城陥落のきっかけを作った。現在は残念ながら通行止めの看板が出ている。確かに、ここを登りたくなる気持ちは、分かる。

odani78-sその他の谷沿いの見どころを軽く紹介。こちらは超巨石、丸子岩。

odani79-s堅堀跡。ここも織田軍の誰かが竹束を持って逆走したのだろうか。

odani80-s御屋敷跡。ここにはかつて、城主 浅井亮政・久政・長政や、お市の方・浅井三姉妹などの浅井一族が暮らした大屋敷があったという。説明板によると、浅井氏が江北の実権を握り、京極氏を招いて宴を開いたときの様子を記した古文書が残っており、そこのこの屋敷の様子が詳細に書かれているという。

odani81-s広い屋敷跡の中央付近に、小さな供養塔が5つ並んでいた。長政・お市・三姉妹を祀っているのだろう。合掌。ちなみにお市と三姉妹は小谷城落城直前に秀吉に救出され、織田軍陣地へと移された。

odani83-s屋敷跡の南には更に幾つかの屋敷跡があり、小谷城の番所へ続く「虎ヶ谷道」が現れる。説明板によると、虎ヶ谷道の両側には高い土塁を持った屋敷跡が並んでいることから、往時は重要な道の1つ(大手道かも)だったと考えられるとのこと。残念ながら今は行き止まりで通行止め。

odani84-s多く建ち並ぶ家臣屋敷跡の1つ、遠藤屋敷跡。石をくりぬいた立派な説明板によると、浅井長政の重臣だった遠藤直経は、長政からの信頼も厚く、織田軍vs浅井軍「姉川の戦い」で浅井軍の敗北が濃厚となった時、信長の首を取るべく味方の首を持って織田軍の武将を装って織田陣営の奥深くまで侵入を試みた。しかし本陣近くで発覚してしまい捕らえられ、斬首されたという。

odani85-s清水谷の出口には「小谷城戦国歴史資料館」がある。横長の建物で、中央に入口があり、展示ルームが左右に分断している。内部は写真撮影禁止のため紹介なし。なお「日本100名城スタンプ」は建物に入ってすぐに置かれていた。

odani87-s歴史資料館の向かいには、谷の出口付近から直接 小谷城の出丸跡へ通じる「追手道」がある。左右の広場は重臣の屋敷跡。

odani88-s少し離れたところから小谷城址を眺める。右側の「史跡小谷城跡」の看板がある山が出丸のある山で、そこから山3つが小谷城址。左の一番高い山が大嶽砦跡。3つ向こうの山まで行ってきたのかと思うと我ながらよく頑張ったと感じたとともに、ここに巨大山城を築いた浅井氏の凄さ、そしてそこを攻め落とした当時の織田軍の精鋭たちの意地に改めて驚かされた。

odani89-s最寄りのJR虎姫駅前には、浅井長政公とお市の方の銅像が仲良く並ぶ。

江北の雄 浅井氏の居城だった小谷城跡。破城されているものの山城跡としての見どころは十分、意外と手前にある本丸跡までで引き返してくるのではなく、是非一番奥まで上がり、巨大石垣を見て、谷沿いに降りてくる(あるいは大嶽砦経由で尾根沿いに降りてくる)フルコースで浅井氏に想いを馳せましょう。

訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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