小谷城 [2/3] 本丸と山王丸東側に残る浅井氏渾身の巨大石垣跡へ。

小谷城前回(Part1)までの小谷城 訪問記。

戦国ガイドステーションよりバスに乗って番所跡へ。御馬屋〜赤尾屋敷(浅井長政公自刃の地)〜桜馬場(大河撮影場所)〜黒金門跡(石段の跡がはっきりと分かる見どころポイント)と見ながら登っていく。Part2では大広間へ。


<訪問記>

odani28-s黒金門跡を越えると、かなり開けた削平地へ出る。小谷城の本丸とも言うべきこの「大広間」には重要な屋敷群と、奥の土塁の上には天守が建っていたという。

odani29-s大広間跡 説明板。千畳敷という別名にふさわしい広さ!85mx35m=約3000㎡。足元を見ると礎石跡と思われる並んだ石などが散見される。

odani30-s大広間の奥にある天守台には、石垣が残る。下に積もった枯葉の山を取り除けば、もっと壮大な石垣跡が出てくるのでは!? と期待してしまう。長浜城築城のため殆どの石材が運びだされてしまったが、こうして僅かながらも浅井氏の築いた堅固な石垣山城の痕跡が残る。

odani31-s石垣の前に立つ、本丸 説明板。彦根城西の丸の三重櫓はここにあった小谷城天守を移築したものとのこと。ただし江戸末期1853年の大修理によりほとんど部材は取替え済みとのこと。

odani32-s本丸石垣アップ。遠目で見ると小さな石が積まれた小さな石垣に見えるが近くで見るとこの迫力。

odani32a-s本丸・大広間 復元縄張図。天守台の北側には大堀切があり、主郭部を南北2つに分けているという。

odani33-s天守台(本丸) 上へ。往時ここに三重櫓が堂々と建っていたのだろう。

odani34-s本丸の上にある、本丸説明板。絵図には「天守共 鐘丸共」と記載されていることから、いわゆる天守というよりは城内に急を知らせる鐘楼的な建物だったのかもしれない。ただし江戸中期の絵図なので実際どうだったかは不明。

odani35-s小谷城散策はまだまだ続く。奥に行くには天守台向かって左側に続く登城道を通る。ここも虎口的な石垣跡が残る。説明板によるとこの西側(斜面下)は御局屋敷跡で、御馬屋から続く本丸防御用の帯曲輪とのこと。

odani36-s天守台北の大堀切へ。大きすぎて曲輪に見えてしまうほどだが、枯葉を除くと平らではないのかもしれない。本来は尾根が続いているはずなのでかなり削っている。

odani37-s大堀切から北へ進めば、中丸(なかのまる)と呼ばれる曲輪へ。このあたりにも石垣跡が散見される。

odani38-s中丸 復元縄張図。南北3段の小曲輪から成る。虎口を左右に振りわけていた今までの曲輪と異なり、大堀切の北側の中丸からは中央に虎口がある違いが見られるという。

odani39-s中丸内の少曲輪を区切る段差には、石垣と石段の跡がはっきりと残っている。

odani40-s中丸 最上段の曲輪には、刀洗池と名付けられた池跡が残る。その横の石段から、中丸の北側へ向かう。城内の井戸の1つであったという。

odani41-s中丸 刀洗池の上から南側 中丸を見下ろす。段差がくっきり残り、往時の山上要塞の雰囲気を想像できる眺め。櫓や建物、塀、かがり火などが置かれ、山麓より攻めあがってくる羽柴藤吉郎などの織田軍精鋭を迎え撃った。

odani42-s中丸から更に北側への登城道にも、虎口の遺構が良好に残る。

odani43-s京極丸。浅井亮政が当初仕えていた江北の守護大名・京極氏を、浅井氏の台頭後に逆に迎え入れた屋敷跡と言われる。まさに下克上。

odani44-s京極丸 説明板。秀吉はここを最初に落とし、南側の本丸と北側の小丸との分断に成功、結果的に小谷城が落城するきっかけとなった。漫画「センゴク」ではこの京極丸攻めを行う(仙石秀久らが竪堀を竹束を持って逆流する)描写が実に生々しく描かれていて、中世山城攻めの苛酷さが垣間見える名シーンとなっている。

odani45-s小丸および京極丸 復元縄張図。この京極氏には清水谷から水の手と言われる急峻な登城道を登って直接到達することができ、秀吉はこの道を通って直接 京極丸を落としたと言われる。先ほど見た虎口跡は、図に描かれた枡形虎口か。

odani46-s京極丸。ここもかなり広く、京極氏のために広い屋敷を用意したのだろう。

odani47-s京極丸の北側にある小丸へ。奥の一段高くなった曲輪に 2代城主 浅井久政が引退後に住んだ屋敷があったとのことだが、秀吉による京極丸奪取により、息子の3代長政が守る天守(本丸)との連携が取れなくなり、ここで自刃したという。

odani48-s小丸 奥の久政屋敷跡。ここで自刃したと伝わる。合掌。

odani49-s小丸の奥へ進むと、急に荒々しい大量の石垣が出現する。1つ1つの石も、天守などで見られた石よりも大きく迫力がある。上に積まれている石垣部分から落下してきたか、長浜城築城時等に持ち出す際に破棄されたか。

odani50-s石垣が途切れ、かなり崩れているが虎口ぽくなっている場所から上の曲輪へ上がることができる。この石垣の崩れっぷりは秀吉による破城跡か。

odani51-s石垣を越えて上に上がると山王丸 曲輪跡へ到達する。

odani52-s山王丸 復元縄張図。一番高い曲輪に山王権現を祀る神社があったことから山王丸と呼ばれるようだ。周りを強固な石垣で囲っていたとのことで、先ほど見た南側虎口の強烈な石垣跡だけでなく、曲輪の東側にも大石垣が残るという。ではその曲輪の東側へ回りこんでみよう。

odani54-s曲輪の東側へ。場所が分かりづらいが、山王丸上から直接東側へ出ることは(斜面が急すぎて)難しく、南虎口まで降りてそれを越えて東側へ向かえば大石垣への道へ辿り着くことが出来る。

odani55-sこちらが小谷城最大の遺構、山王丸東斜面 大石垣。高さ5m。この規模の石垣で各曲輪がぐるっと覆われていた往時の姿は勇壮かつ強烈な印象だったろう。

odani56-s大石垣は横幅10mほどに渡り残存している。一番北の端は直角に積まれていることから、ここが一番端っこだったようだ。

odani57-s大石垣アップ。いい具合に苔むしていて、まさに兵どもが夢の跡。秀吉は破城の際なぜここだけを残したのだろうか、長浜城と反対側だからか。

山王丸が小谷山山頂にあたり、その北側は小谷城の搦手口で下り坂となる。Part3では、そこから清水谷へ抜けて武家屋敷跡を見ながら下山する。

>> 小谷城 [3/3] へ続く。<<

訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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