小谷城 [1/3] 江北の戦国大名 浅井氏が築いた堅固な一大山城。

小谷城(おだにじょう)は、江北の戦国大名・浅井氏(あざい)の居城。16世紀初頭に室町期の守護大名だった京極氏の跡目騒動に乗じ、家臣の浅井亮政(あざい すけまさ)が権力を拡大、ここ小谷山上に新たに城を築き、そこに京極氏を迎えた。3代長政(ながまさ)の代には、江南の六角氏や美濃の斎藤氏を凌ぐ力を持つまでになったが、紆余曲折を経て織田信長に破れ小谷城は落城、浅井家は滅亡した。遺構の多くは西の琵琶湖沿いに建てられた「長浜城」築城のため持ち去られたが、連郭式山城の曲輪群は良好に残り、また一部石垣も現存するなど見所は多数。クマが出るという情報もあるので要注意。

odani_cover<基本データ>
●名称: 小谷城(Wikipedia
●所在: 滋賀県長浜市(マップ
●築城: 浅井亮政
●竣工: 1524年(大永4年)頃
●遺構: 石垣、曲輪、堀切、井戸跡 等

<訪問記>

odani01-s小谷城址は、小谷山の麓にある「戦国ガイドステーション」傍にある登山口と、清水谷(きよみずだに) を上がっていく秀吉攻略ルートがある。最寄りのJR虎姫駅(無人駅) からはどちらも遠い。今回は「戦国ガイドステーション」から小谷城バスが出ているのでそれを使ってガイドのオバちゃんとらくらく登山コースを選択。例の大河ドラマ「江」の時に一気に整備されたのだろう。

odani02-s2011年の大河ドラマ「江」放映記念で作られたという巨大な兜。前立ての家紋はもちろん浅井家の「三つ盛亀甲に花菱」。

odani04-s大河ドラマ「ゆかりの地」ノボリがあちこちに立っている。2011年の江だけでなく、2014年の軍師官兵衛もちゃっかり載せている。官兵衛は小谷城とは関係が無い(小谷城落城[1573]時は黒田氏は小寺氏家臣で秀吉の家臣となるのはその後の播磨攻めの際)ので、黒田氏のルーツが北近江の木之本付近だと言われる一説に便乗してのものか。ちなみに黒田氏のルーツを名乗る町は他にもあり詳細は不明。

odani051-s小谷城バスでガイドさんと一緒に番所跡の手前まで。そこから番所跡までは紅葉が美しい。

odani061-s超巨大な小谷城跡絵図が出迎えてくれる。曲輪が尾根に沿ってまっすぐ順々に連なる「連郭式」と言われる構造だ。山頂からは谷を通ってまた山麓まで戻ってこられるので一番奥まで言ってもOK。

odani07-s番所跡。ここで城内を出入りする人物をチェックしていたとか。この写真の左側には、番所と登城道を区切る石垣の跡と思われる石が転がっていた。

odani08-s各曲輪には、このように手書きでリアル&詳細な当時の復元予想図ボードが設置されている。右下には監修:中井均氏の名前が見える。中井氏は近江屈指の城郭研究家で、日本屈指の城マニアで、関連書籍もたくさん出しておられる。うちにも「近江の山城ベスト50を歩く」など幾つか著書がある。以前たまたま某山城で中井氏とお会いした際も実に気さくに話してくださり実に好印象だった。この図を見ながら実際の遺構と見比べると、かなり楽しい。ボードの絵図に現在地がどこなのかを示してもらえると尚良かった。

odani11-s番所跡の上には御茶屋跡がある。ガイドさん曰く、御茶屋曲輪と名付けられているが御茶を飲む優雅な場所などではなく、細長い曲輪が上下に2つ繋がるさまから軍事的な役割を担っていたと思われるとのこと。確かに奥の右側が少し盛り上がっている。
odani121-s御茶屋 想定図。ここからが主郭の始まりのようだ。
odani13-s御茶屋曲輪の上には御馬屋 曲輪がある。かなり広く開けていて、中央には井戸があったようだ。説明板によると、ここで名の通り馬を飼っていたかどうかは意見が分かれるところらしい。周囲は高い土塁になっている。

odani141-s御馬屋曲輪の入口付近には馬洗池と呼ばれる池跡が残る。ここも名の通り馬を洗う用というより、この上の桜馬場曲輪への石垣に取り付くのを防ぐための水堀としての役割ではないか、とのこと(中井先生監修の説明板より)。馬洗池跡の周囲には石垣の断片が残る。

odani15-s御馬屋曲輪から桜馬場曲輪へ向かう登城道の途中にある「首据石」。説明板によると、1533年、初代 浅井亮政は六角氏との戦いで内通した家臣の今井秀信を暗殺し、見せしめとしてこの石の上に首を晒していたという。大勢が通る登城道の途中の石の上に生首が置いてあるなんて、いかにも戦国時代らしい話だ。

odani16-s首据石のすぐ上に赤尾屋敷跡への入口となる脇道がある。先に進む前に、こちらへ寄ってみる。

odani17-sこの先が赤尾屋敷跡。脇の図面によると、斜面の下(写真の右側)に3つほどの曲輪が繋がる構成だったようだが、現地は樹木が生い茂りそちらへは行けそうもなかった。

odani18-s説明板には、浅井長政自刃の地とある。1573年9月1日、信長の小谷城攻めに対し討って出た長政だったが、信長軍に攻められ本丸に戻ることが出来なくなり、ここ赤尾美作守の屋敷で自刃したという。享年二十九歳・・・。

odani19-s奥には浅井長政公自刃之地という石碑が建つ。合掌。

odani20-s赤尾屋敷跡から元の登城道へ戻り、桜馬場跡へ。ここからは琵琶湖が一望でき、大河ドラマ江でも収録に使われたそうで、曲輪内には撮影現場写真のボードがいくつか立っていた。

odani21-s史跡 小谷城址 石碑。

odani22-s史跡碑の前には、浅井家及び家臣供養の五輪塔が建つ。ちなみに五輪塔は下から順に、四角・丸・三角・半円・スライム型と形が決まっているそうで、インドに伝わる宇宙の5大構成要素である地水火風空をそれぞれ表しているそうだ。

odani23-s桜馬場の図面。東西に細長い2つの曲輪からなり、長い方の曲輪からは琵琶湖や、小谷城攻めで信長軍が陣を敷いた虎御前山が一望だという。

odani24-s桜馬場曲輪から見た風景。少し霞んでいて見づらいが、正面中央奥にうっすらと竹生島が見える。その右側の山は山本山。信長が陣を敷いていた虎御前山は左側に見える。

odani25-s桜馬場を構成する2つの曲輪の間には、往時の石段らしき遺構も残る。

odani26-sそして屋敷が建っていたと思われる礎石もはっきりと残る。ガイドさん曰く、見逃してしまいがちだが見所ポイントとのこと。

odani27a-s桜馬場から先へ進むと、大きな石段とその脇を固める石垣の遺構がしっかり残る。すごい迫力だ。黒金門(くろがねもん)跡という名から、鉄を打ち付けた扉を持つ強固な門がここを守っていたようだ。

この先はいよいよ大広間〜天守台となり、小谷城の中核へと続く。

>> 小谷城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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