福山城 [2/2] 日米和親条約を締結した老中 阿部正弘の銅像が建つ。

福山城 訪問記 其の二。福山城 [1/2] の続きです。前半では、駅前の高石垣〜本丸〜各櫓〜天守を見て回りました。後半では、棗木御門跡から二の丸へと回ります。


<訪問記>

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本丸北西にある棗木御門跡 (なつめごもんあと)。分かりづらいが、虎口の入口付近に石碑が建つ。見事な食い違い虎口。御門は往時は高麗門だったようだが、今は鉄製の冠木門が建つ。

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御門を出たところにある立派な櫓台。古絵図によると、棗木御門の横には二階櫓が建っていた模様。

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現天守の北側には、旧天守の礎石が移築保存されている。無差別爆撃で燃えてしまった天守の礎石とのこと。礎石の向こう側にはなぜかテニスコートが2面・・・。

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天守の東側へ回りこむ。小さな千鳥破風がところ狭しと並んでいる。個人的には、姫路城の側面などに見られる2層ぶちぬきの大きな千鳥破風が好きだ。

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天守の東側の広場(二の丸)には、初代 福山藩主にて福山城を建てた水野勝成公の銅像が建つ。袴姿のため戦国武将というより家老という雰囲気だが、小牧・長久手の戦いの頃からの歴戦の武将だ。

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二の丸の東にある、東揚楯御門跡。往時は石垣上の櫓や多聞櫓が囲っている枡形虎口だった模様。

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東揚楯御門跡 脇の石垣の上には「二重櫓跡」の石碑が立っていた。

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二の丸では、本丸の高い石垣を間近に楽しむことが出来る。

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本丸北側に戻り、テニスコート側から天守を眺める。往時はこちらからは砲撃に備えるため一面に黒い鉄板が装備されていたという。(参考:北面の古写真

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城跡の北東部には、福寿会館と呼ばれる屋敷と洋館・日本庭園の一角がある。こちらは屋敷の入口。見事な軒唐破風の屋根。入場見学も出来るようだが、訪問時は貸し切りで使われており入場NGだった。

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日本庭園から天守を眺める。きれいに整備された緑に天守という絶好の写真スポットだが、ちょうど南西方向を見る位置関係になるため、午後だと逆光になり厳しい。

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福寿会館の北側には備後護国神社が鎮座する。大きな石の鳥居。

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備後護国神社の山門。旧阿部神社の門という。正門は西側にあるが、こちらからでも参拝は可能。説明板によると、昭和32年までは阿部神社と称し歴代藩主を祀っていたが、英霊を祀った護国神社と合祀して備後護国神社となったとのこと。

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旧阿部神社門を越えて石段をあがると、宮本武蔵 腰掛石という由来がある武蔵瞑想石がある。由来の詳細は説明板にて。

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宮本武蔵 腰掛石の由来。歴史のロマンを感じる。ちなみに宮本武蔵は巌流島の戦いで有名なことから剣術の達人というイメージがあるが、それだけではなく、日本庭園の設計や城の縄張りなども行っている文化人であったという。詳細は明石城 訪問記にて。

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備後護国神社の境内には、備後福山藩 7代藩主・阿部正弘公の石像が鎮座する。歴史の授業で習ったとおり、阿部正弘といえば日米和親条約。説明板によると、弱冠25歳で老中となり9年後には筆頭老中に就く。列国との和親条約の締結だけでなく、日の丸を日本の国旗と制定したのも阿部正弘公とのこと。また教育を重んじた政策により合格祈願の神様として祀られているようだ。

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備後護国神社 拝殿。この下には長い石段がある。

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こちらが備後護国神社 神門。こちらが正門のようだ。神門の左右には護国神社らしく慰霊碑がずらりと並ぶ。

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護国神社の北側には赤門がある。他の遺産と比べてもかなり朽ちており、赤門に関する説明板なども無かった。

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護国神社前に建つ福山城と備後護国神社の説明板。

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護国神社から南へ進み、城跡の西側を歩く。付近は美術館や博物館などが建ち並び、城の遺構は大きく破壊されてしまっているようだ。ここには旧 内藤家の長屋門が移築保存されている。説明板によるともう少し西の外堀に面した場所に建っていたようだが、付近の開発に伴いここに移築されたようだ。

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本丸に建つ鐘楼を外側から見ることが出来た。石垣がL字に曲がる形をしている。今は鐘楼が単独で建っているが往時は多聞櫓等で繋がっていたことが分かる。またここは御台所御門と呼ばれる本丸への入口の1つだったようだ。現在は石垣で塞がれている。

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鐘楼西側付近にも阿部正弘公の銅像が建つ。足元の説明板では日本を近代国家へ成し遂げた偉人として褒めちぎり。しかし実際は銅像のようにスリムではなく肥満体で、39歳の若さで亡くなっているようだ。

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阿部正弘之像 説明板。

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伏見櫓の外側まで南下する。伏見櫓の南隣には松林があり、その中に真横に成長する珍しい松があった。伏見櫓と一緒に一枚。

訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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