萩城は、関ヶ原の西軍総大将であった毛利輝元が敗戦により所領を周防・長門の二国に減封された後、旧領の広島城に代わる居城として新たに建てた城。山頂の詰丸と山麓の平城から構成される。敗軍の将からか、江戸幕府成立後に建てられたにも関わらず戦時を意識した造りが随所に見られることが特徴。明治の廃城令で破却されたが、本丸の石垣と内堀が明瞭に残る。
<基本データ>
●名称: 萩城 (Wikipedia)
●所在: 山口県萩市(マップ)
●築城: 毛利輝元
●竣工: 1604年(慶長9年)
●遺構: 石垣、堀、長屋
●情報: 日本100名城 No.75 (一覧)
<訪問記>
萩城跡 南にある、二の丸南門跡から城跡へ入る。当時は門と土塀で囲まれていたであろう枡形虎口となっている。二の丸門跡の前には萩史料館と旧厚狭毛利家萩屋敷長屋がある。紅葉の季節ですごい落ち葉の量だろうが、道の上は綺麗に掃除されていることに感心。
二の丸南門の入口付近には「舊長藩 指月城址」の石碑が建つ。舊は旧の旧字。指月城(しづきじょう)は萩城の別名で、指月山に詰丸が築かれていたことから指月城とも呼ばれる。
二の丸南門に建つ毛利輝元公像。中国の雄・毛利元就の孫で、戦国末期には広島城を居城とし中国地方一帯を治めるも、関ヶ原で西軍総大将に担ぎ上げられ敗北、周防・長門の2国に減封される。その後、居城としてここ萩の地に新たに萩城を築城した。台座の紋は「一文字に三つ星」毛利家の家紋。ここ萩では、毛利家を超拡大した毛利元就公ではなく、萩城を建て城下町を発展させた藩祖・輝元公推しだ。
二の丸南門の道はカギ状に曲がっている。石垣が取り囲んでおり、古絵図を見ると枡形虎口だったようだ。
二の丸南門の先の二の丸跡には、萩焼資料館など萩焼に関する建物が並ぶ。二の丸の先には「史跡 萩城阯」の石碑と本丸門跡が残る。右側は城内にある「志都岐神社」の碑。橋を渡った先にある小屋で入城料210円を支払う。この210円には二の丸南門前にあった旧厚狭毛利家屋敷の見学料も兼ねているという。ちなみにレンタサイクルのまま城内散策可だった。古絵図によると、この橋は途中まで土橋で途中から太鼓橋(極楽橋)がかかっていたようだ。
本丸門跡前に建つ説明板。今も残る天守台には当時5層の天守が建っていたという。史料によると赤瓦を葺き漆喰壁を持つ白亜の望楼型天守だったようだ。
石碑と天守台石垣・指月山を収めた定番の構図。
本丸門を入ったところにある萩城跡 案内図。左側の図面はかなり細かく描いてあるので、入口でもらえるパンフの地図よりも参考になる。
萩城跡 本丸内。きれいに整備されている。
内堀沿いの石垣には長い雁木(がんぎ=石垣に設けられた階段のこと)が設けられ、有事の際には一斉に兵士が石垣の上(”五十間多聞櫓”)に上がることが出来る構造になっている。江戸時代に建てられた城だが戦いを想定した造りになっているところがポイント。
内堀沿いの石垣上から天守台を眺める。当時の櫓の構造が想像できそうな礎石にニヤリ。
雁木アップ。しっかり残っている。
天守台へ。
奥が天守台。手前には古写真によると天守に続く屋敷のような付櫓(つきやぐら)が建っていたようだ。
天守台の上へ。天守の礎石がしっかり残る。古写真によると、天守は2層の入母屋造の台座の上に3層の望楼型が載っている形で、1層目が石垣より大きい張出構造になっている。
天守台の上から北西方面の内堀を見下ろす。堀が複雑な形になっている。
天守台の上からもう1枚。極楽橋方面。白い建物は萩焼資料館。江戸時代初期からの名茶器などが展示されているようだ。
天守付櫓台から天守台石垣の反り具合を愛でる。上部はほぼ90度に近く、下の方は45度にも満たない緩やかな角度になっていて、極めて美しい扇の勾配を楽しむことが出来る。この石垣に反りをつける技術を「規合(のりあい)」という。(萩城復元勉強会HPより)
天守台を少し引いて撮影。
本丸跡から西側の内堀を越えて、海沿いに南の二の丸へ出る虎口へ。この石垣の上には櫓門があり、右側には岡崎櫓(岡崎矢倉)があったようだ。現在、この先の海は埋め立てられ、現在彫刻を展示する石彫公園となっている。
石彫公園の入口に残る八間矢倉跡。古絵図によると櫓は二層で、この右側(西側)はすぐ海だった。一間=六尺=約1.8mなので、八間だと約14.5m。
萩城本丸内へ戻る。本丸内の芝生には、現在の萩城の主である(?) 猫がたくさん居た。手前左だけでなく、写真右奥にも3匹写っている。
本丸北西部には、指月山の詰丸へ向かう入口がある。
指月山 詰丸跡 説明板。山の上には本丸と二の丸があり、櫓も数箇所建っていたという。標高は143m、約20分で詰丸跡に着くという。訪問時、既に17時前だったので登山を断念。詰丸跡には石垣や櫓跡、復元土塀などがあるという。次回は是非行ってみたい。
本丸中央付近に建つ萩城址碑。明治〜大正時代に建てられた史跡顕彰碑はこのスタイルが多い。
萩城址碑の説明板。碑を建てた公爵 毛利元昭公は長州藩最後の藩主だった毛利元徳公の長男とのこと。
本丸跡には萩城址碑の他にもたくさんの萩に縁のある人物などの顕彰碑が建つ。その内の1つ、近藤元統の碑。説明板によると、萩城建築以前にここに屋敷を持っていた近藤氏は、萩城築城に際し土地を毛利輝元に献上したという。碑は明治30年に近藤氏の子孫が建立。
萩城本丸跡には、志都岐山神社が建つ。立派な石の鳥居だ。
志都岐山神社 説明板。明治11年に、毛利家を代表する5名を祀って建てられたという。
志都岐山神社の境内には石橋がかかっている。これは藩校・明倫館の遺構「万歳橋」。中国風の太鼓橋。明倫館跡は現在、明倫小学校になっている。
万歳橋 説明板。英文の最後がおかしい(同じ文章が2回現れる)。作った人(業者)も、受領した人(役所)も、内容を確認しなかったのだろう。
本丸内に建つ、旧福原家書院。萩藩の永代家老として代々支えてきた一族という。幕末ごろの建築と思われるとのことだが、それにしても室内の畳が派手に陥没している。床板が腐っているのだろうか。
萩城の北東部は東園跡となっており、一部で発掘調査を実施中だった。何か新しい発見があると嬉しい。
東園跡。6代藩主 毛利宗広 が造った回遊式庭園という。パンフによると元々ここに池があったそうで、それを活用して庭園に仕立てあげたようだ。
このまま東園跡を東に抜け、海に面した土塀・石垣跡を散策する。
>> 萩城 [2/2] へ続く。<<
訪問時期:2013年11月
撮影機器:SONY NEX-C3
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