福岡城 [後編] 城内各地の門跡付近に残るゴツイ石垣も見どころ

福岡城前回までの福岡城 訪問記。

福岡城の顔とも言うべき鉄御門跡から天守台へ。石垣の内部が穴蔵(地下一階)になっている構造の天守台だった。複雑な構造の小天守台や、現存多聞櫓などを見て回り、城跡の裏手へと進んできた。


<訪問記>

fukuoka_s-46南二の丸を出てすぐ右側には「生捕櫓跡」というプレートが建つ。生け捕った敵兵を捕らえておくための櫓ということ?

fukuoka_s-47こちらが本丸石垣の南側へ出る「水ノ手御門」跡。右手前が先ほどの生捕櫓跡。

fukuoka_s-48水ノ手御門跡を出て、本丸外周石垣を見上げる。算木積み+野面積み。この高石垣の上に御武具櫓があった。

fukuoka_s-49水ノ手御門跡のプレートが建つあたりの真上の石垣を見上げる。石垣が反り上がるように築かれるいわゆる「扇の勾配」ではなく、直線的な石垣だ。

fukuoka_s-50南二の丸のすぐ北にある「桐木坂御門」跡。本丸外周石垣とはまた異なる、更に荒々しい野面積みだ。

fukuoka_s-51隅角部の算木積みと、内部の独特感あふれる野面積みのコントラストに圧倒される。薄い石材が多いのが特徴。まるで徳島城跡

fukuoka_s-52南二の丸の西側へ。現存 多聞櫓を外側から見上げる。隅櫓には石落としがあるので、戦いを意識していたことが伺える。総漆喰の真っ白で優雅な城壁ではなく、下見板張りの黒い壁はまさに戦いの城という印象を与える。

fukuoka_s-53多聞櫓を別角度から。年代を感じさせる石垣と、焼き板のくすみ具合が良い感じ。

fukuoka_s-54三の丸 多聞櫓・石垣 の説明板。ここに説明板を建てているということは見どころスポットの1つということか。この凄い圧倒感の石垣は、黒田二十四騎の1人で石垣積みの名人、野口一成が石垣普請奉行を務めたことによるものだそう。熊本城を造ったあの加藤清正をも唸らせたとか。一般向けの説明板なのに「石垣の表情」なんて表現を使ってて、石垣が好きな人が書いたんだろうなぁと読んでてニヤリ。

fukuoka_s-55s桐木坂御門跡から三の丸を北へ向かう道は植樹されていて、二の丸外周石垣を見上げながら進む。

fukuoka_s-57三の丸を北上すると舗装されたゆるやかな坂道に出る。ここは松ノ木坂と呼ばれ、松ノ木坂御門があったようだ。

fukuoka_s-56坂の途中に建っていた三の丸(松ノ木坂)説明板。城全体に関する説明文になっていることから、ここから城内へ入る人に向けて書いた文面のようだ。駐車場がここの近くにあるので、観光バスや車で来る人はここから入るのだろう。

fukuoka_s-58坂の一番下には「史跡 福岡城跡」の立派な石碑があった。現代の大手門はこちらということか。

fukuoka_s-59車道の向かい側にある公園の入口付近に残る「名島城」の移築門、その名も名島門。

fukuoka_s-60名島門を裏側から。少し曲がった巨木をそのまま使っている。彦根城天守の梁もこんな感じだったなあ。

fukuoka_s-61名島門 説明板。毛利一族の小早川隆景が1587年に建てた「名島城」の脇門が、廃城の際に家臣の家に移築され、明治になって代議士の家に移り、戦後にここに移されたという。この門が家の門だなんて、まさに大豪邸。

fukuoka_s-62名島門の北側には、かつて黒田官兵衛の隠居屋敷(三の丸御鷹屋敷)が構えられた場所が残る。今はボタン・シャクヤク園となっている。

fukuoka_s-63三の丸御鷹屋敷 説明板。築城の際、本丸よりここの方が高かったため、均して低い丘にして隠居屋敷を建てたという。なお官兵衛がここに隠居した時点で既に家督を長政に譲り黒田如水と名乗っていたため、黒田如水 隠居地 と表現が統一されている。

fukuoka_s-64御高屋敷の更に北側には櫓が残る。隣の下之橋御門とセットで写真に映ることが多いため、セットものかと思っていたが、昭和の移築の模様。調査の結果、この櫓はかつて裏御門横に建っていた「古時打櫓」であったことが判明した。確かに外見だけ見ても、裏御門の古写真に映る古時打櫓のように見える。しかし櫓のすぐ横に電柱建てるかなあ。

fukuoka_s-65櫓の手前に立つ説明板。伝 潮見櫓とタイトルが付いているが、前述のとおり、これは旧 古時打櫓。ちなみに英語説明の f.k.a. とは formally known as の略で、以前この名で知られていた=旧、という意味の慣用句で、a.k.a (also known as / 別名) と同様に頻出。覚えておこう。

fukuoka_s-66櫓の北隣には、下之橋御門。こちらは内側から見た図。門自体は現存ではなく、平成20年の復元。漆喰が真新しい。復元とはいえ石垣の間に櫓門が建つとやはり壮観だ。

fukuoka_s-67こちらは下之橋御門を外側から見た図。奥の伝潮見櫓(古時打櫓)とセットで映るので、お城感が半端ない。下之橋御門の一層目は平成12年まで残っていたが不審火で被災、平成20年に二層目とセットで復元、と福岡市HPにあった。表から見た一層目の鏡柱や冠木はかなり重厚で歴史を感じる。燃えたといいつつもある程度は残って再利用したのかもしれない。

fukuoka_s-68下之橋を渡って中堀の外側から御門と櫓を見る。最初に通ってきた上ノ橋は当時は大手門扱いだったものの現在は石垣しか無くしかも工事中なので、いまは下之橋から入ったほうがお城に来た感があって良いかもしれない。

fukuoka_s-69下之橋御門 説明板。説明板に先ほどの失火の話および一層時代(〜平成12年)と二層時代(〜明治時代)の写真が載っている。発掘や史料調査で二層部分の主だった仕様が判明し、不明な部分は現存する表御門(崇福寺山門)や上ノ橋御門の古写真を元に図案を作成と、出来るだけ当時の姿を復元するよう努力したことが伺える。部材に残る痕跡とあり、不審火で”焼失”ではなく”被災”とあるので、焼け落ちたのではなくちょっと燃えたぐらいなのかもしれない。いろいろ調べてみると、九州大学で下之橋御門の復元に関する問題提起の論文(PDF)が見つかり、そこに「燃えやすい格子などは被害が甚大であったが、それでも門の骨格を構成する古材の大部分は、外側の焼損にとどまり、材の大半は残っている」という記載があった。なるほど。なお論文によると、下之橋御門二階部分の図面や写真が無いため、不明瞭な上ノ橋御門の古写真をベースに外観を復元したとあり、写真以外の史料が示す物証との整合性が取れない箇所があると苦言を呈している。

fukuoka_s-70おまけ1:下之橋の向かいにある写真左の「ふくおかフィナンシャルグループ本社」ビルの1Fロビーに、黒田二十四騎の人形があるという。帰りに時間があったので寄ってみた。普通の会社の受付の横にあるので、受付嬢に一言「展示を見にきました」と声をかけてから見よう。人形だけでなく、写真右の説明板や専用パンフまで配布している力の入れよう。さすがお城の目の前に建つビルだけのことはある。

fukuoka_s-71おまけ2:人形は意外と小さく(ひな人形ぐらい)、またガラスケースに入っていることから反射して全体写真が撮りづらい。左上は毛屋武蔵武久、武功が多く色々な大名から引き抜きの話があったという。右上は野口佐助一成、前述の福岡城 石垣普請奉行。下中央のカニのツメみたいな脇立の武将は桐山丹波丹斉、文禄の役で明との講和が決まった際に長政の使者として秀吉に謁見し、名護屋城で甲冑を拝領したエピソードがあるという。

主要な建物はほぼ残らない福岡城跡だが、壮大な敷地と立派な石垣、そして復元が進む建造物もなかなかの見どころ。城下町には黒田家ゆかりの場所も多くあるようなので、ゆっくり時間をかけて観光したいところ。


訪問時期:2013年11月
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