丹波亀山城 : 丹波攻略の拠点として明智光秀が建てた総石垣の城。

丹波亀山城は、丹波攻略の拠点として信長の命により明智光秀が築城。本能寺の変の際、光秀はここ丹波亀山城から軍勢を引き連れて本能寺へ向かったことで有名。その後は豊臣家の支配を経て、江戸時代には天下普請により藤堂高虎の縄張りで大修築が行われた。5層5階の天守、3重の堀を持つ城下町が整備されたという。明治の廃城令で建物は破却、土地は新興宗教団体が買収し、石垣の積み直しなど破壊・改変が行われ、当時の遺構は失われた。城跡の一部は一般公開されている。

<基本データ>
●名称:丹波亀山城 (Wikipedia)
●所在:京都府亀岡市(マップ
●築城:1578年(天正6年)
●築主:明智光秀
●遺構:石垣、曲輪、井戸跡
●関連:亀岡市観光協会


<訪問記>

kameyama01-sJR亀岡駅からまっすぐ南に進むと、池に面した小さな公園に辿り着く。ここからが亀山城跡のようだ。公園には、亀山城の鯱を模したモニュメントが向かい合わせに建つ。阿吽ではなく両方同じ形(左右対称)。ちなみに街の名前は亀岡なのに城は亀山なのは、ここは元々「亀山」と呼ばれていたが、伊勢にも亀山という街があってややこしいので明治時代に亀岡と改名されたという(観光案内で配布のパンフ「京都亀岡 城下町散策MAP」より)。

kameyama02-s鯱瓦モニュメント。なかなか良く出来ている。ブロンズ製とのこと。

kameyama03-s鯱瓦の台座には銅板で説明が書かれている。天守の絵は古絵図からの引用で、各階に破風などの装飾が一切無い層塔型天守だ(長崎 島原城と同じ)。説明によると亀岡城天守の鯱瓦は京都府立医科大学に現存するという(医大HPには記載なし)。一般展示できる状態じゃないからか、こうして複製して公園に展示してくれているのは有り難い。両方とも阿吽の吽(口を閉じている姿)なのは、現存する方が吽だからだろうか?

kameyama04-s公園の片隅には「明智光秀公 築城 亀山城趾」の石碑がひっそりと建つ。奥の建物は自衛官募集案内所。

kameyama05-s池沿いに公園を東へ進む。当時は外堀であったという。

kameyama06-s南郷公園 案内板。亀山城は南側は内堀・外堀・惣堀の3重構造だったようだが、北側はこの南郷池のみだったらしい。1kmほど北を流れる保津川を堰き止めれば水田が堀になるという秘策はあったものの、南郷池がこれだけ広いので1重とはいえそうそう渡ることも容易ではなさそうだ。

kameyama07-s公園の東橋には「保津門跡」の看板が建つ。門の礎石など特に当時の様子を残す遺構はなかった。場所を示すだけだ。

kameyama08-s公園東端から南へ進み、城跡を目指す。亀山城跡は明治の廃城後荒れ果てていたが、本丸・二の丸などの土地を大正時代に新興宗教団体「大本」が購入、石垣の積み直しを行い、ここを宗教施設とした。石垣の一部が一般公開されているのでそれを見に行く。

kameyama09-sこちらが新興宗教団体の正門。かなり入りづらい。現場には何処にも書いていないが、城跡は一般公開されているという情報を信じて入ろう。中は緑が多いせいか、ひんやりしている。

kameyama10-s城内案内図。宗教関連施設の説明しかされていないが、右側(北側)のイチョウが描いてあるあたりが城跡のようだ。その前の大きな屋敷で受付をする必要があるとのことで、まずはそこへ向かう。

kameyama11-s説明板の右側に伸びるこの道を進む。

kameyama12-s突如現れる石垣。ここが城跡という感じが出てきた。丹波亀山城跡の石垣は明治の廃城、戦時中の新興宗教団体への弾圧による破壊などがあり失われ、戦後に信徒たちの手により復元されたという。今見られる石垣はほぼ戦後に積み直ししたものなのだが、石垣の専門家ではない素人の信徒が、これだけきれいに積めるものなのかと思った。(信徒に専門家が居た、あるいは雇ったのかも)

kameyama13-s奥のほうには苔むした石垣。積み直してからも結構の時間が経っていることが分かる。用いられている石材には矢穴の跡も見られる。

kameyama14-sこの橋の向こうにある屋敷で、城跡散策の受付を行うという。

kameyama15-s屋敷前に居た白装束の人に城跡訪問の旨を伝えると、神社でよく見かける神主さんが持っている白い紙がたくさんついた棒(神社ではオオヌサと呼ぶ)でお祓いをされた。これで城跡に立ち入りが許可される。屋敷の左側にあるこの小さな門から城跡へ向かう。

kameyama16-s石垣で囲まれた道を通り、城跡中央部へ。配布されたパンフ「大本と丹波亀山城址」には「石垣はかつての石垣跡にそって積み直し」とあるため、石垣の高さはともかく当時もこのような道があったということか。この先を道にそって右に曲がると天守台。

kameyama17-sこちらが天守台。突如現れる巨大な石の壁に驚く。これも信者が手で積み直したのか、新興宗教の信者も大変だ。パンフによると、下3段程度は破却後も残っていた築城当時の石積みとのこと。通常後年に積み直しを行うと、積み直し部分と現存部分がくっきり分かれるほどの差が出るのだが、どこまでが現存かまったく分からない。

kameyama18-s残念ながら天守台の上は立入禁止。城マニアが侵入することを防ぐためか、赤外線探知機のようなものが設置されており、近づくことすら躊躇われる。石垣はほぼ再建なので登ることに余り意味は無いかと諦める。

kameyama19a-s天守の横には、大銀杏に関する説明板がある。亀山城を最初に築城した明智光秀が手植えしたと伝わる銀杏の木が天守台の上に残るという(ただし2代目)。

kameyama19b-sパンフによると石碑の上にそびえるイチョウが見えるとある。写真中央に映る、奥の一番太い木がそれか。なお石碑の内容は新興宗教関連。

kameyama20-s石碑付近から天守台石垣を見る。高虎よろしく扇の勾配が再現されている。もはや信者の手積みとは思えない、ここは穴太衆などの専門家が指揮監督していたものと思われる。

kameyama21-s巨大な石垣の横を通り、奥へ進む。施設内に残る城の遺構はこの程度で、奥には道沿いに新興宗教施設が並び、正門の反対側へ抜ける事ができる。

kameyama23-s宗教施設のエリアを抜けたところにある亀山城跡 説明板。こちらは裏側になり、受付が正門側にあることからここからは入れないはずなのだが、こちらに詳細な説明があるのが少し不思議。内容は、明智光秀築城の「第1期 亀山城」、秀吉支配期(関ヶ原寝返りで有名な小早川秀秋など豊臣一門が城主を歴任)の「第2期 亀山城」、天下普請による「第3期 亀山城」についての説明があり、分かりやすい。パンフによると、第1期(光秀時代)は3層天守、第3期は藤堂高虎の縄張りによる天下普請で5層天守に改造。3重の堀もそのときに整備されたという。

kameyama25-s城跡を出て、亀岡の街に残る遺構を訪ねて回る。観光案内所でパンフ「京都亀岡 城下町散策MAP」という当時と現代の地図を重ね合わせて見られる資料を配布しており、これが非常に分かりやすい。街を散策するなら是非入手しよう。京都府観光連盟HPでPDFがダウンロードできる。また街中のあちこちに歴史説明板を建てており、行政が歴史の街・亀岡をPUSHしようとしている姿勢が伺える。ここは穴太口(あなおぐち)と呼ばれる城の出入口の1つを記す当時の石碑。この道(旧山陰街道)の先に穴太寺(あなおじ)があるためこう呼ばれるとのこと。

kameyama26-s穴太口付近を流れる外堀跡。非常に細い溝になっているが、今も残る。当時はどれぐらいの堀幅だったのだろうか。

kameyama27-s亀岡の街には古い町並みが残る。紺屋町にある明治10年創業の造り酒屋「関酒造」の建物。白漆喰の壁に格子戸、屋根の上には煙出し。

kameyama28-s外堀跡は細い溝になりながらも亀岡の街中を流れる。ここにも外堀跡の説明板があった。説明板がないとこの溝が外堀だったとは気づかない。

kameyama32-s城下町には古くからの寺社がたくさんある。城下町全体を堀で囲む「総構(そうがまえ)」ということで、これらの寺社も軍事拠点だったのだろう。こちらは城跡の南東にある「聖隣寺」。説明板によると、光秀が亀山築城時に城の鎮護として二の丸に安置していたものを、後に城下町の守護神としてここに移築されたという。境内の墓地には、信長の供養塔があるという。信長を謀反で殺した光秀が作った亀岡の街に、信長の供養塔があるという歴史のフシギ。信長供養塔をお参りしていこう。

kameyama33-s聖隣寺 境内墓地の織田信長 供養塔。墓地の一番奥にある。信長の四男であり、秀吉の養子として育てられた秀勝が、清洲会議でここ丹波亀山城を与えられた際に供養塔を建立したという。五輪塔には信長の戒名である「総見院殿一品泰厳大居士」が刻まれている…というが読み取れなかった。

kameyama34-s聖隣寺から少し南へ下ると、惣堀跡の看板がある。こちらもコンクリートで固められた溝状態になっているが外堀と同じく今も亀岡の街を流れているようだ。

kameyama35-sその惣堀沿いにある坂部児童公園内に残る「御土居」跡。ただの高台に見えるが、江戸時代に惣堀を守るために作られた立派な土塁。なお坂部児童公園の手前には、カギ状に道が曲がる「遠見遮断」跡も残る。

kameyama_omake01-sおまけ1:稱名寺(しょうみょうじ)。17世紀の建立で亀山城とは余り関連がないが、城内にあの「和泉式部の墓」があるというので寄ってみた。ちなみに説明板によるとこの山門(薬医門)は17世紀の建立時のもので、城下最古の建造物という。

kameyama_omake02-sおまけ2:こちらが伝 和泉式部の墓。稱名寺自体は17世紀建立のため、別の地からここに移設されたという。ちなみに伝 和泉式部の墓は日本各地にあるという。

中学校で習った日本史の復習:
平安時代の有名な女流歌人 → 紫式部(恋愛長編「源氏物語」)、清少納言(エッセイ集の起源「枕草子」)、和泉式部(女流日記の代表作「和泉式部日記」)。


新興宗教団体に買い取られ聖地として改変されながらも整備保存されている丹波亀山城跡。天守台の高石垣は、近年に積み直したものとはいえ、光秀当時の城の雰囲気を感じられる巨大なもの。入口はかなり入りづらい雰囲気だが、気にせず入って、当時の一大居城を散策しよう。

訪問時期:2013年10月
撮影機器:SONY NEX-C3
– – – – – – – –
ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^)

投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね!
ページの一番上に戻る

– – – – – – – –
城めぐり関連ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ!

このブログは果たして何位でしょうか? (=゚ω゚)ノ