小浜城は、関が原前哨戦で活躍した 京極高次 が、若狭に入国し小浜藩を立藩し、小浜湾・北川・南川の三角州に築城した近代城郭。しかし京極氏は未完成のまま松江藩へ加増転封となり、代わって入国した老中・酒井忠勝が、3重3階の天守を持つ小浜城を完成させた。城は明治まで存続するも、明治4年の失火で天守以外を焼失、天守も売却撤去された。城跡には小浜神社が建ち、本丸石垣が現存する。
<基本データ>
●名称 : 小浜城 (Wikipedia)
●所在 : 福井県小浜市 (マップ)
●築城 : 慶長六年 (1601)
●築主 : 京極高次
●遺構 : 天守台、石垣、曲輪
●関連 : 小浜市HP、福井県HP
<訪問記>
JR小浜駅からまっすぐ北へ約1.5km。小浜湾へ流れる南川にかかる「大手橋」の向こうに見える森が、小浜城址。城址は今は小浜神社の境内になっているようだ。
大手橋を渡ってすぐ左の細い道に入ると、突き当たりに石垣が見える。住宅街に突如現れる戦国時代の遺構。しびれる。
神社(城址)に行く前に、突き当たりの石垣をしばし眺める。打込ハギで、角は矢穴も残る綺麗に加工された石材による算木積み。十分堪能したら向かって右の道を進み神社の入口へ。
小浜神社。鳥居にかかる注連縄(しめなわ)が美しく、地元に愛されている神社であることが伺える。両端の灯籠には「酒井忠勝公入城三百五十年記念」と記してある。
小浜神社 由緒書。御祭神は小浜藩主・酒井忠勝公。初代藩主の京極高次ではなく三代目の酒井忠勝が祀られているのは、小浜の街の発展にかかる貢献度からか。福井県HPによると、京極氏時代に築城を着手したものの幕府の課役(天下普請か)などにより進展しなかったとある。実際、天守や外郭部が完成したのは酒井氏時代。
境内 入ってすぐにある「小浜城 ごあんない」説明板。歴史だけでなく当時の縄張図と現在の道も載っていて非常に分かりやすい。石垣は「慶長積み」という聞きなれない表現がされている。大手橋は現在の橋よりも東にあり、城の周りは内堀に囲まれていたようだ。
初代 “酒井”小浜藩主・酒井忠勝の説明板。僅か13歳で関ヶ原前哨戦にて初陣、33歳で次期将軍の近侍、35歳で大名、37歳で老中、47歳で国持大名(小浜藩主)、50歳で大老。まさに出世街道まっしぐらだ。最初に小浜藩を作り小浜城を建て始めた京極高次に関する説明板は無し。
拝殿の壁に貼ってあった「小浜神社のご案内」。8箇所の見どころを説明してくれているが、①〜⑧と番号が打ってある割にはそれがどこにあるのか書いていない… と思いきや、本来は中央下の上面図に番号が振ってあったのだが、これが色あせてしまって見えなくなっているだけだった。写真では分からないが、実物をよ〜く見るとうっすら見えていた。ちなみに②③は本殿左側、④は社務所の上。
絵馬堂の中に貼ってあった、個人蔵の小浜城絵図写し(の城郭部分)。右が北になる。この図面を頭に入れて遺構を見て回りたい。
まずは天守台から。本丸からすぐに天守に上がることは出来ず、ぐねぐねと曲がった道を辿らねばならない構造。低いので無理やりまっすぐ登ることもできるが、当時は礎石の上に土塀や櫓が建っていたのかもしれない。
天守台への登り口に近づく。美しい。この入口は当時は両端の石垣を櫓が跨ぐ櫓門風になっていたのだろうか。
天守台への入口。
天守台の上は展望台になっており、説明板の他、礎石と思われる矢穴の開いた石材がいくつか並べられている。
天守台に設置の説明板。完成までに城主4代、約40年かかっているが、最初の30年間の京極氏時代は幕府の課役(天下普請)が大変でなかなか小浜城まで手が回らなかったとあったので、異様に時間がかかってしまったのかもしれない。
天守台の上にあった礎石と思われる石材。矢穴の跡もあることから、当時の石材であることは間違いないようだ。
天守台から北西方面を眺む。小浜湾が一望。先ほどの絵馬堂の絵図によると、手前の家が建っている辺りとその奥の野原は当時 内堀だった。
天守台を一旦降りて、北隣の小天守跡へ。奥の一番高い石垣が天守台。絵馬堂の絵図には小天守らしき記載がなかったが、ここにも櫓が建っていたと思われる広さがある。
小天守台の上から天守台石垣を見る。結構な高さがある。野面積みと打込ハギの中間のような石積みだ。これが慶長積み?
更に北の、西櫓跡へ。この上からは、石垣を伝ってぐるっと北側を周り、城郭の北東あたりまで行くことができる。隅の石材は天守台のそれと比べて造りが甘いのは、高さが低いからか、あるいは造られた時代が古い(京極氏時代)からか。
西櫓跡へ上がる道には、瓦の破片が散在していた。天守以外の櫓は明治の失火で焼失したので、西櫓はこの辺りに燃え崩れたのだろうか。
北側中央の翳櫓(かげやぐら)跡。石垣が北に飛び出ているところに櫓が建っていた。石垣を構成する石材も大きさや色がばらばらで、天守台の石垣と比べてかなり乱雑な印象を受ける。こっちが慶長積み? ちなみに翳櫓台のすぐ東側に北の丸への橋がかかっていたようだ。
翳櫓跡から西側の石垣を見る。野面積みだ。石垣ぎりぎりまで民家の敷地になっているのに驚く。黒いビニールは何のためだろうか。石垣崩落時のクッション…にはあまりならなさそうだ。
翳櫓跡から東側の石垣を見る。西側と異なり、完全な打込ハギだ。使われている石材もまったく違うもののようだ。ここから先は後で造られたということか。一番奥の一番上の石が外に飛び出ていて落ちそうで怖い。
石垣の北東端からは石段で降りることが出来る。石段の左側は「市立酒井会館」。元々は酒井家邸宅だったものを寄進を受けここに縮小移築したとのこと。
北東端の石垣の北面。奥の翳櫓台の石垣とは明らかに異なる雰囲気だ。絵図によると当時はここに門があり、その先に北の丸へ渡る橋がかかっていた模様。
一旦 本丸内の西側へ戻る。絵図によると当時はなかった通路のようだが、石垣の一部が切られておりそこから外へ出られるようなので、出てみる。左側は小天守、右側は西櫓。
小天守および天守台の石垣を外側から見る。絵図によると、石垣の下はすぐ堀ではなく、犬走り的なスペースがあったようだ。
乾櫓(北西端)跡の下から見る、石垣外観。手前(乾櫓)と奥(西櫓)とで石垣の雰囲気が異なる。手前は打込ハギだが奥は野面積みのような感じもする。ちなみに今立っているところは恐らく当時 内堀の中。
もう少し近寄って西櫓下あたりへ。やはりこちらは野面積みだ。実に荒々しく迫力がある。
本丸内へ戻る。本丸の北西にある稲荷大明神。説明板によると、元々は北の丸の鎮守神だったが、明治になってここに移転したとのこと。御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのかみ)。
本殿南側の「嘉門の井戸」および「ころび橋」。嘉門の井戸は小浜城内にあった井戸跡とのこと。ころび橋は京極氏の築城時に小浜町内(鹿島区と浅間区の境)から移設した巨石と伝わるものらしい。ちなみに「転び橋」ではなく「古呂美橋」と書くようだ。元々は橋に使われていた巨石という意味か。
組屋地蔵尊。由来記によると、小浜築城時の人柱として豪商組屋氏が娘を献じたが、蜘蛛手櫓(左の石垣)から夜な夜な女の忍び泣く声がすると聞きこの地蔵尊を造り組屋地蔵と号して供養した。しかしその後の地震で石垣が崩落し、その修繕時に地蔵尊が石材として使われてしまった(!)。昭和34年の修復工事時に石垣内からこの地蔵尊が発見され、組屋家の家紋があることから、こうして再度 組屋地蔵尊として祀られることとなったという。よかった。
おまけ:中学校で習った「解体新書」で有名な杉田玄白は、酒井家の江戸下屋敷で生まれた小浜藩医だそうだ。ターヘルアナトミア。小浜のヒーローは、老中酒井忠勝公とドクター杉田玄白か。
おまけ2:JR小浜駅前の様子。2011年大河ドラマ「江」(主役: 上野樹里) で浅井三姉妹がフィーチャーされたときに立てられた看板か。
ついでに浅井三姉妹まとめ→長女・茶々(淀殿)は秀吉側室。次女・初は京極高次(初代小浜藩主)正室。三女・江は2代将軍徳川秀忠正室。ちなみに母親は信長の妹・市で、市の夫は浅井長政と柴田勝家。すごい家族だ。
訪問時期:2013年10月
撮影機器:SONY NEX-C3
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