敦賀城 : かつて大谷刑部の平城跡で敦賀陣屋跡。遺構はほぼ失われた。

敦賀城は、関ヶ原合戦 西軍の石田三成の盟友・大谷吉継が居城としたことで有名。秀吉の小姓だった吉継は秀吉の天下統一に向けた緒戦で武功を挙げ、秀吉が関白となった際には従五位下・刑部少輔に叙任された。その後、敦賀5万石を与えられて敦賀城へ入城、3層の天守を持つ近代城郭へ拡張した。しかし秀吉死後からわずか2年、天下分け目の関ヶ原合戦で西軍につき大敗、関ヶ原山中で自害した。その後 城は家康の次男 福井城主・結城秀康の治めるところとなったが、一国一城令により廃城となった。遺構はほとんど残っていない。

<基本データ>
●名称: 敦賀城 (Wikipedia)
●所在: 福井県敦賀市 (地図)
●築城: 1583年(天正11年)
●城主: 蜂屋頼隆、大谷吉継
●遺構: 礎石


<訪問記>

tsuruga03-sJR敦賀駅から歩いて20分ほど、北西1.5kmほどの位置にある「真願寺」。ここに敦賀城跡の石碑が建っている。立派な山門や白壁の塀が敦賀城の遺構っぽいがそうではない。

tsuruga04-s石碑の後ろに掲げられた説明板。「大谷吉継 敦賀城跡碑」とある。礎石が寺に残っているという。

tsuruga05-sこちらがその寺内にあった敦賀城礎石。誰もおらず説明板等もなかったため詳しいことは分からないが、丸い穴が柱の跡であるという。城門の礎石であろうか。

tsuruga02-s真願寺から歩いて5分ほどの距離にある敦賀西小学校のそばに、「敦賀城の跡」というピカピカの石碑が建っている。廃城後の敦賀城跡は江戸時代になって敦賀藩の陣屋・奉行所・代官所が建てられ、明治の廃藩置県後で敦賀県となるとここに県庁が置かれたという。その後 敦賀の町は敦賀県から滋賀県となり今の福井県へと変遷したが、敦賀の地に県庁が戻ることはなかった。という敦賀の町とこの場所との歴史のつながりを明快に書き記してある。いいね。

tsuruga06-sテキスト部分をアップで。大谷刑部の敦賀城跡は陣屋となり城の遺構は失われ、そして陣屋跡も小学校となり陣屋の遺構は失われた。しかしそのかつての地域の中心地だった面影は残っている。

tsuruga07-s敦賀役所図。陣屋時代の図面。現在いる小学校は、かつての北町・南町奉行所跡。

tsuruga01-s敦賀西小学校から更に南へ5分ほど歩いたところにある「屋根裏資料館サウダーデ」前には「敦賀城 三の丸趾」という看板が建っていた。またこのすぐ北隣には八幡神社があり、その境内にある郷土博物館にも敦賀城の鬼瓦などゆかりの品々が展示されているという。

その他、真願寺から10分ほど西へ歩いたところにある来迎寺には「敦賀城の中門」と伝わる山門がある。敦賀駅から歩いて往復するにはちょっと厳しいため今回は訪問を断念。その他、敦賀市内には吉継ゆかりの神社などが散在しているようなので、敦賀再訪の機会があればじっくり訪れたい。

訪問時期:2013年10月
撮影機器:SONY NEX-C3
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