坂本城 : かつての明智光秀居城は破城と都市化でほぼ跡形なし。

坂本城は、比叡山焼討後に織田信長の命で明智光秀が琵琶湖畔に建てた水城。湖上交通確保と延暦寺監視がミッションという坂本城は、光秀の居城ということもあり大小2つの天守をもつ巨大な城であったという。本能寺の変〜山崎の戦いで光秀が殺害された後、落城した。その後再建されたが大津城建築のため廃城となり、資材は流用されたため、都市化にも伴い遺構は殆ど残っていない。渇水の際にのみ湖面下部から現れる石垣跡があるという。(大津市の提唱する) 湖都三城の1つ。

<基本データ>
●名称: 坂本城 (Wikipedia)
●所在: 滋賀県大津市 (マップ)
●築城: 1571年(元亀二年)
●城主: 明智光秀
●遺構: 石垣?

訪問時期:2013年10月 / 2017年2月


<訪問記>

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坂本城址をGoogleマップで検索すると住宅街にある石碑の場所(ここ)を示しているが、メインは坂本城址公園の方と考える。Googleマップでは「都市公園湖岸緑地北大津地区」(ここ)となっている。入口に建つ大きな「坂本城址」の石碑が目印。

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「坂本城址」石碑。なかなか立派だが、ちょっと読みづらい。

sakamoto04-s公園内に建つ看板。坂本城址公園ではなく、滋賀県営 都市公園 湖岸緑地 北大津地区 というのが正式名称のようだ。長い。城址公園の手前部分は駐車場になっている。

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公園の奥半分は芝生広場になっており、坂本城に関する石碑などがいくつか並んでいるようだ。順を追って見ていこう。

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縄張図や年表、関連写真もある分かりやすい坂本城跡 説明板。この城址公園は城の縄張り外だったようだ。琵琶湖渇水の際のみ現れるという湖中に残る石垣の写真が見られるのは貴重。また、中堀跡が北国海道、外堀跡が下道と、どちらも埋め立てられてそのまま街道になっているのが興味深い。

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光秀の業績が刻まれた石碑。光秀の建てた坂本城は豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていたとのこと。しかし光秀の人生最大のイベントであったはずの本能寺の変については触れられていない。業績ではないということか?。福知山城は光秀推しな雰囲気があったが、ここ坂本も光秀推しのようだ。

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光秀の詠んだ歌に関する石碑。光秀は優れた武将であっただけでなく茶の湯、連歌、詩歌などに造詣が深い文化人だったとのこと。確かに光秀の歌は、謀反への決意表明とも言われる愛宕百韻の「時は今〜」など有名だ。石碑の歌は、古くから多くの歌に詠まれる著名な「唐崎の松」が枯れてしまったことを惜しむ歌とのこと。

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そして、業績碑・歌碑と並んで建つのが、問題の明智光秀像・・・

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明智光秀といえば本徳寺の肖像画(Wikipedia本徳寺参照)が有名で、しかもこの絵しか残ってないので当然これを参照して作るべきだが、似ても似つかぬこの姿。地元の英雄をこんな姿にするなんて。何を元にこの石像を彫ったのだろうか。福井城の結城秀康像(写真)、三木城の別所長治像(写真)と同じぐらいのガッカリ武将像。

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光秀像の隣に、真新しい石碑が建っていた。平成25年6月建立。「光秀(おとこ)の意地」、鳥羽一郎の2007年リリースのシングルのようだ。ボタンを押すと歌が流れるようになっていれば尚よかった。「わしは主を間違えたようじゃ」には違和感があるが、最後の「武士は散れども 桔梗(な)は残る」はいい感じ。桔梗は明智家の家紋。

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坂本城址公園の水際には、坂本城の遺構であると思われる(思いたい) 石垣跡のような石列がずらりと並ぶ。この石に関する説明板等が無いので、ここにあったのか、掘り起こしたのか、移設したのか、模擬石垣なのか、一切不明。歌碑もいいけどこちらの説明板もぜひ欲しいところ。

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別角度から。石をただ並べているだけでなく、ちゃんと積んであるので、石垣と思いたいが、どう見ても土留の石積みっぽいので、公園造成時のものか。

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坂本城址公園を出て、周辺の散策へ。公園の少し北にある(縄張図上での)本丸跡にはキーエンス社の研修所が建つ。その入口の前に「坂本城本丸跡」の石碑があるのだが、字が非常に読みづらい。撮った写真を修正して何とか判読。後半を記載→「天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。」 出土した石垣や井戸、礎石はまた埋め戻したのだろうか。せめて城址公園に移設展示してもらいたかった。

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こちらが本丸跡。私有地のため入れないが、中には井戸跡や礎石跡などがあるのだろうか。湖に沈む坂本城の石垣が渇水時に見られる場所も、この「本丸跡」の中とのこと。ちなみに琵琶湖は渇水にならないように水量コントロールがなされているので、石垣が見えるほど渇水することは今後はもう無いとのこと。残念。

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キーエンス本丸跡の少し北には、明智塚と呼ばれる場所がある。ここは縄張図によると本丸と二の丸の境(内堀)付近にあたり、坂本城落城の際に光秀の脇差名刀や宝器物を埋めた塚跡であるという。現在この地を所有する村田氏により整備されているようだ。

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こちらが明智塚。個人宅と事務所の間のスペースに造られており、入りづらかったので入口からお参り(滋賀県観光協会のHPにも堂々と紹介されているので入っても大丈夫と思われる)。

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続いて、二の丸と三の丸の間(中堀)付近にある、坂本城址のもう1つの石碑。裏書によると大正4年に建立されたもののようだ。休憩所のような形になっており地元民の憩いの場という感じだ。住宅街の中に突如現れる感じ。なお街中にある案内板(「坂本城址 →」)は、城址公園ではなく、ここを指している模様。

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坂本城跡 説明板。昭和59年製ということで、30年ほど経つからか非常に読みづらい。昭和54年実施の発掘調査で焼土中つまり明智時代の遺構から礎石や井戸などが出たとあるが、これは恐らくキーエンス前の石碑に記載があったものと同じであろう。こちらも出てきた遺構がどうなったのか記載なし。

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石碑の裏にも小さな石柱があり、上にこんなパネルが埋めてあった。城址公園などを訪ねていてよく思うのは、こういう同じような内容のことを別々の石にそれぞれ書くのはどういうことなのだろうか。歴史遺産保護のための予算がついた年度が違うとか、ふるさと創生事業とか、そういう感じだろうか。

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坂本城址の石碑が建つ街道は西近江路(北国海道)と呼ばれ、資料によると元々 坂本城の中堀だったようだ。それを示す内容が、街道沿いに建つ「旧大道町」という石碑に書いてあった。

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旧大道町の石碑説明板。「(前略) 坂本城が廃されて大津へ移転。その跡地の堀を埋めて北国へ通じる大道をつくった (後略)」とのこと。そう言われてみると、石碑横の白壁の下部は、堀の石垣のような感じもする。

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(おまけ)JR湖西線 比叡山坂本駅の駅前には、安土城などの石垣で有名な「穴太衆」積みの石垣が楽しめる「坂本石積みの郷公園」がある。穴太衆が住んだと言われる町「穴太(あのう)」は坂本の南西にあり、古くは延暦寺の建立の際に動員されたとのこと(参考:穴太積みを継承する粟田建設)。なお大津観光ガイドHPによれば、日吉神社まで通じる日吉参道には多くの穴太積みの石垣が見られるとのこと。行けばよかった。

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こちらが穴太衆による野面積み石垣、通称穴太積み。自然石を比重のかけ方を意識しながら自然石のまま積み上げる。大小の石ががっちり組まれる力強さは、打込ハギ・切込ハギの石垣とはまた異なる趣だ。野面積み、大好き。

坂本穴太の町にある「西教寺」は、明智光秀とその一族の菩提寺である。移築建造物もあるそうなので、少し寄ってみよう。

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西教寺 山門。かなり立派なこの山門は、在りし日の坂本城の移築城門と伝えられている。昭和に修理が行われたため、結構キレイ。

sakamoto_5163西教寺の山門 坂本城遺構 説明板。光秀が移築した、とある。まだ坂本城があった頃に、光秀自ら、この城門を西教寺に移した? 山崎の戦い後、廃城となった際に焼け残り西教寺が譲り受けたのが妥当でないだろうか。。。

sakamoto_5164西教寺山門 裏側から。控柱に小さな屋根が乗る、高麗門 形式。

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山門の脇には「明智光秀公とその一族の菩提寺」と書かれた石碑も建つ。

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では境内へ。右側の石垣はいわゆる穴太積。穴太衆が積めば穴太積となる。

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戦国武将に仕えた人たちの墓、と題して、境内あちこちに散在する戦国期〜江戸期の諸大名らの墓石の場所を説明している。坂本城のページということで、1番の明智光秀公と一族の墓、そして2番の明智光秀公の妻の墓を訪ねよう。

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こちらが明智光秀公と一族の墓。

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詳細な説明板も建つ。比叡山焼き討ちの際、ここ西教寺も兵火で焼失。その後再興に尽力したのは明智光秀で、刻名入りの棟木もあるという。

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その脇に建つ、巨塔と石垣の間にひっそりと佇む小さな五輪塔。こちらが明智光秀の妻 煕子(ひろこ)の墓。

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坂本城主 明智光秀の妻 煕子の墓(ガラシャの母)説明板。あの芭蕉が丸岡城を訪れた際に明智光秀の妻について一句詠んでいるとか。

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西教寺にはもう1つ、伝 伏見城の旧殿と言われる客殿が残る。こちらのこけら葺きのかなり立派な建物がそう。コレは外から撮影しているが、中にも入れる。

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西教寺 客殿 説明板。秀吉亡き1598年、伏見城の旧殿をあの大谷刑部が移したもの、とある。

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その他、穴太の街には至る所で立派な石垣を見ることが出来る。竹林院の正面にある「芙蓉園」の入口は、こんな感じ。穴太衆積み石垣(文化財)の巨大看板が目立つ。

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街路沿いもこの石垣。

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穴太の町並み。

sakamoto_5134続いて、もう1つの「坂本城 移築門」が残る、来迎寺(らいごうじ)へ。山道の奥に見える山門がそれだ。

sakamoto_5135来迎寺 説明板。790年創建。旧坂本城門、宇佐山城主 森可成の墓など。

sakamoto_5140こちらが来迎寺表門、坂本城 移築門。表柱がかなり太い。

sakamoto_5141なんとこの表門は重要文化財。堂々たる札。明智光秀坂本舊城門、とも書かれている。

sakamoto_5142来迎寺表門を裏側から。控柱とともに大きな屋根を支える薬医門形式。

sakamoto_5145門の左右には番所的な小屋が備え付けてある。反対側にはちょっとした石垣と土塀。お城っぽい。

sakamoto_5146来迎寺 客殿。こちらも重要文化財、寛永十六年 (1639) 建造。狩野探幽の障壁画があるという。

sakamoto_5154客殿の脇から奥の墓地へ。

sakamoto_5149手前にある大きな五輪塔は、宇佐山城主 森可成の墓。森可成は坂本城が出来る前、坂本の山中に建てられた宇佐山城主だったが、1570年の浅井朝倉連合軍による攻撃で討死した(城は落城を免れた)。

sakamoto_5150奥には「岐阜城主 織田秀信公の母 寿々(鈴姫)」の墓もある。織田秀信とは信忠の子、いわゆる三法師。清州会議でのエピソードが有名だ。鈴姫は塩川長満という武将の娘だが、詳細不明。信長、秀吉に仕えたという。

1582年まで約10年間、琵琶湖西南にその勇姿を誇った近江坂本城。光秀の想いとともに露と消えてしまった。落城後、残った資材は大津城に移され、都市化により堀は街道に、曲輪跡にはビルが建った。僅かに残る石垣は今も琵琶湖の湖面下に残る。坂本の地を歩いて各地に立つ説明板を見ながら、光秀の想いを改めて想像してみるのもまたひとつの城めぐりだと思う。

訪問時期:2013年10月 / 2017年2月
撮影機器:SONY NEX-C3 / FUJIFILM X-T10
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坂本城 : かつての明智光秀居城は破城と都市化でほぼ跡形なし。” への2件のフィードバック

  1. 「手前にある大きな五輪塔は、宇佐山城主 森長可の墓。」と、ありますが、説明板は、森 可成の墓になってますよ。森 長可は、森 可成の次男です。

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