彦根城 [2/2] カーブを描く鉢巻腰巻石垣が楽しめるお堀めぐり。

彦根城前回(Part1)までの彦根城訪問記。

駅から佐和口御門を経て入城。壮大な石垣だけでなく、天秤櫓、太鼓櫓など現存建造物のオンパレードに感動。

Part2では天守を経て裏側を見ます。


<訪問記>

hikone39-s彦根城天守へは隣の附櫓から入る。現存天守のため、土足禁。文化財を守ろう。

hikone40-s附櫓の中はこんな感じ。火灯窓(かとうまど、花頭窓とも書く)と呼ばれる窓枠が展示してある。

hikone41-s城壁(土壁)の説明板。耐火性及び物理的破壊耐性が必要なため何層にも分かれており、何と厚さ40cm!刀や槍による破壊を防ぐため、石を詰めた層まであるとか。

hikone42-s彦根城天守 説明板。望楼型の古い天守構造だが、調査の結果、元々5階4重の建物だった事が分かり、「大津城からの移築説」は正しい可能性が高いとのこと。天秤櫓、太鼓櫓、西の丸三重櫓、そして天守と彦根城に残るほとんどの櫓が別の城からの移築ということになる。もったいないの精神、というより、築城を急いだためという理由が大きそうだ。

hikone43-s狭間。彦根城天守の狭間は外側に蓋をして漆喰を塗り、外側からは狭間が分からないようにしてあるため、隠狭間(かくしざま)と呼ばれる。ちなみに外国人向けにアルファベットで書いてあるが…TE PPO ZA MA。読めるけど、意味わからんよ。ちなみに英語で鉄砲狭間は crenel。

hikone44-s井伊直弼之像。彦根市民にとっても井伊家と言えば直政と直弼。ちなみに井伊直弼は学生時代に習った時の印象では、安政の大獄で吉田松陰など名士を処刑しまくった独裁者で最期は桜田門外の変で暗殺される悪い人、と言う散々なイメージだったが、色々調べてみると日本の近代化に向け開国を推し進めた立役者と言う評価もある。彦根ではそちらが評価されて英雄のようだ。

hikone45-sこちらが天守内部の様子。真ん中の広間には瓦や懸魚などがガラスケースに飾られているが、文化財保護のためか照明がかなり暗めなので見づらい。やむなし。

hikone46-sこちらは「破風の間」。破風の内側が小部屋になっていて、この木戸がその入口になっている。木戸には鉄砲狭間もあり、内側からこっそり狙い撃ち、なんてこともできる。

hikone47-s天守最上階の梁(はり)。曲がった木材を絶妙なバランスで組み合わせて大屋根を支えている。これで400年以上倒れずに持っているのだから、すごい技術力だ。

hikone48-s天守からの眺望。琵琶湖の対岸までくっきり見える。

hikone49-sこちらは天守1Fの出口にある鉄扉。このように扉や柱に短冊状の鉄板を鋲で隙間なく打ち付けた鉄門(くろがねもん)は、ここ彦根城天守だけでなく名古屋城本丸表二の門や姫路城(に)の門などでも見られ、当時の大砲弾の直撃にも耐えられたという。(現地説明板より)

hikone52-s再び天守の外へ。青空に白亜の白壁が映える。美しい。ちなみに彦根城天守に大量に設置されている破風の内部に設置されている懸魚(げぎょ)は、よくある蕪懸魚ではなく「梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)」と呼ばれる形で統一されているところがポイント。

hikone53-sこちらは天守を横から見上げた図。天守正面は広場があるので距離をとれるのに対し、横は通路ほどしかないため、めちゃくちゃ見上げる形になってしまうのが残念。破風の並びなど、横からの方が好きだ。

hikone54-sそしてこちらが裏側(西の丸側)から見た天守。表と同じかと思いきや、第1層の窓の位置が異なるようだ。個人的にはこちらからの天守の姿が好き。

hikone55-s「西の丸」。西の丸には奥に三重櫓(現存)が建っているが、それ以外にも築城当時にはいろいろ建物が建っていたようだ。

hikone56-s西の丸三重櫓。櫓は二の丸曲輪の角に建っており、両脇に多聞櫓が繋がっている。一説には、あの「小谷城天守」を移築したものと伝わる。

hikone57-s西の丸三重櫓の説明板。浅井家が滅亡した小谷城の天守を移築したものと伝えられている。彦根城は、まさに長浜城、大津城、小谷城と、琵琶湖沿岸の各城から櫓を移してきて建てたことが分かる。

hikone58-s西の丸三重櫓の内部へ。天守と同じく、大きく曲がった木材の梁だ。

hikone59-s箇条書きで読み易い西の丸三重櫓の「みどころ」。攻めてきた敵への反撃のための櫓であるため、外側にしか窓が付いていない、江戸末期に修理された際に移築時の柱や梁は取り替えられてしまった、移築の物的証拠としての転用材が階段の床板に残っている、などの情報を得ることが出来る。

hikone60-s字が細かい方の西の丸三重櫓の説明板。彦根城縄張りの一番北の端にあたる山崎曲輪にも三重櫓があったそうだが明治初年に取り壊されたとのこと。小谷城天守の移築と伝えられるが、前述のとおり江戸後期の大修理で部材の8割が取り替えられたため、小谷城天守であったという証拠が昭和の解体調査では見つからなかったのが残念。

hikone61-sこちらが階段だが、床板にあるという移築の跡を示す「ほぞ穴」は現地では見つけられなかった。

hikone62-s西の丸三重櫓 最上階。

hikone63-s三重櫓から北西方向を見る。これだけの高さがあれば、もし当時 琵琶湖を渡って彦根城に攻めてくる船があれば早い段階から分かっただろう。

hikone64-s西の丸から虎口を通って出郭へ進む。

hikone66-s西の丸(三重櫓)の北側にある大堀切。深い!二の丸とその先の出郭を繋ぐ木橋を落とされると、この石垣を登ることになる。残念ながら大堀切の内部は立入禁止。

hikone67-s大堀切と出郭 説明板。出郭の石垣は、安土城の石垣などで有名な穴太衆(あのうしゅう)が携わったという。

hikone68-s出郭。井戸の跡がある程度で、遺構は無い。

hikone88-s出郭を越えて、観音台方面へ。このあたりの石垣が穴太衆によるものか。確かに、奥に見える西の丸三重櫓の石垣とは趣が異なる。

hikone89-s内堀沿いの道を南(黒門方面)へと進む。

hikone71-s途中「登り石垣」がはっきりと見える場所があった。表門そばの「登り石垣」よりも見やすく、よりはっきりと「登り石垣」具合が分かる。

hikone72-s内堀を渡り、楽々園・玄宮園などの日本庭園エリアへと繋がる「黒門」。今は料金所(券売所)となっている。門の向こうの黒門橋は、現在は土橋(内堀を埋めている)だが、江戸時代は木橋だったそう。

hikone90-s内堀。玄宮園の前には内堀を巡る屋形船の乗り場があり、船頭さんのウンチクを聞きながら堀めぐりを楽しめる(約45分、1200円)。堀を形作る石垣を間近で楽しめるため、石垣好きにはたまらない。

hikone77-s内堀の内側の石垣にある、登り石垣。

hikone91-s鐘の丸 の下あたりにある、結構なRで美しいカーブを描いている内堀の石垣。日本のお城ではないみたい。犬走りは結構角度があり本当に犬が走ったら堀に落ちそうだ。

hikone78-s堀めぐりを終え、京橋(キャッスルロード入口)方面から見る中堀へ。水面にも映る、堀の向こうの気になる大鉄塔はNTT西日本彦根別館。内堀よりも中堀のほうが幅が広い。

hikone92-sこちらが京橋。コンクリート製の橋のようだ。

hikone93-s京橋から中堀を渡ってすぐにある、旧(家老)西郷屋敷 長屋門。説明板によると、今は裁判所が建つこのあたり一帯は当時 上級武士の屋敷が建ち並んでいたといい、この規模の長屋門は他に例がないという。高麗門とのことなので、閉じた扉の内側に小屋根が付いていると思われる。

hikone79-s大手門へ向かう。白鳥が寄ってくる。堀と白鳥はよく似合う。ちなみに内堀には黒鳥もいて、それは水戸市と彦根市が親善都市提携を結んだ際に記念に「水戸偕楽園」から贈られたものという。井伊直弼を巡る水戸と彦根の軋轢を乗り越えたのは、井伊直弼の曾孫で46年間も彦根市長を務めた井伊直愛氏だとか(堀めぐりの船頭さんのウンチクより)。

hikone80-s大手門にかかる木橋。

hikone94-sこのあたりが大手門跡。今は石垣以外には残っていないが、ここには一ノ門・二ノ門が建っていたという。大坂城(豊臣家)を意識し彦根城の南西方面に大手門が造られたが、豊臣家滅亡後、御殿の建っていた表門の方がメインで使われるようになったとか。

今から思えば彦根城はお城めぐりの初期に訪れたこともあり、見どころをあまり押さえておらず、また写真の構図もイマイチ。いずれ端から端まで全て見に再訪せねばなるまい。

訪問時期:2013年9月

撮影機器:SONY NEX-C3
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