和歌山城 [1/3] 紀州徳川家55万石の居城は、石垣の百貨店。

和歌山城は、秀吉の紀州征伐(1585)後に、弟の羽柴秀長に命じて虎伏山に築城させた近代城郭。普請奉行は築城の名手として有名な藤堂高虎だった。桑山氏、浅野氏の時代を経て、江戸時代には徳川家康の10男 徳川頼宣が城主となり、ここに御三家の一つ「紀州徳川家」(55万5千石) が成立した。現在残る和歌山城はこの頃に整備されたものとなる。南海の鎮とも言われた紀州徳川家からはその後 吉宗(8代)・家茂(14代)の2人の将軍を輩出している。明治以降も天守などが現存していたが、昭和20年に戦火でほぼ焼失。戦後、山頂の連立天守群などが再建された。

<基本データ>
●名称:和歌山城 (Wikipedia)
●所在:和歌山県和歌山市 (マップ)
●築城:1585年(天正13年)
●築主:羽柴秀長
●遺構:石垣、水堀、曲輪 等
●リンク:和歌山市観光協会HP和歌山市HP

Link: 和歌山城


<訪問記>

wakayama05-s南海電鉄 和歌山市駅より徒歩約15分。突如現れるお堀に浮かぶ立派な石垣。この堀は西外堀にあたるようだ。現在の和歌山城には5つの入口がある。追廻門・不明門・岡口門・大手門(一の橋)、そして写真左の鳥居が建つ入口(旧 吹上御門)。今回は城の北西端にあたる吹上御門跡の鳥居より入城する。

wakayama06-sこちらが吹上御門跡の入口。実際の門跡は写真右上の人が立っている辺りのようだ。(参考:和歌山市HP-お城豆知識)

wakayama06a-s吹上御門跡前に立つ、和歌山城 説明板。元の天守は黒板張だったが、1796年に白亜の天守に造り替えられ、落雷焼失後、幕末1850年に再建。しかし米軍の無差別爆撃で焼失。昭和33年に鉄筋コンクリート造で再建されたのが、今の天守。現存する建造物は、戦争で焼け残った岡口門と土塀(国重文)など、極わずかなようだ。

wakayama07s2こちらが現在の和歌山城跡マップ。北は左、現在は図の左下の赤丸の所にいる。天守と茶室(お抹茶代)以外、二の丸庭園や動物園が入場無料というのは嬉しい。まずはここでルートを確認。今回は時計回りに、西の丸→御橋廊下→二の丸→表坂登り口→本丸→天守→新裏坂→砂の丸→追廻門→不明門→岡口門→大手門、という感じでぐるっと回りたい。

wakayama08-sまずは西の丸庭園へ。きれいな門があるので有料かと思うが、入場無料。

wakayama09-s紅葉渓庭園(もみじだにていえん)の石碑。元々この庭園は徳川頼宣が隠居用の建物である西の丸御殿に造営したものとのこと。その名の通り、秋に来ると非常に美しいようだ。ちなみに庭園内にあるお抹茶が頂ける茶室は、なんとあの松下幸之助氏(和歌山市名誉市民!)の寄贈とのこと。

wakayama10-s紅葉渓庭園 内部。奥に浮かぶ風情のある建物は「鳶魚閣(えんぎょかく)」。このように池にせり出して造られた吹き放ちの建物を「釣殿(つりどの)」というらしい。

wakayama11-sその釣殿の奥に見える橋は、復元された「御橋廊下」。橋の上に櫓が載った「御廊下橋」というのは他の城など(大分府内城福井城など)でもよく見るが「御橋廊下」というネーミングは初めて聞いた。

wakayama12s2「復元・御橋廊下」「西之丸」説明板。御橋廊下については詳細な図面があり、また発掘調査により堀底から礎石や瓦などが出てきたことから、かなりの精度で復元できた模様。

wakayama14-s御橋廊下は復元ということもあり、中に入る事ができる。こちらが御橋廊下内部。復元とはいえ土足厳禁なので、靴を脱いで手に持って進む(持って行かないと靴を取りに戻ることになる)。階段ではなく床板が斜めになっているのが不思議な感覚。

wakayama21-s御橋廊下を外から見る。美しい。バッチリ覆われているので藩主がお忍びで大奥から西の丸御殿に移動していても誰にも見られない。また高さの異なる二之丸と西ノ丸を絶妙な角度を付けた橋でうまくつないでいる。

wakayama15-sそして御橋廊下を渡った先の堀際には、等間隔に並ぶ礎石があった。説明板を見てみる。

wakayama16-s「多聞櫓の礎石列」説明板。ここには多聞櫓があったとのこと。今は御橋廊下だけが復元され浮いている感じなので、できれば多聞櫓もセットで復元していただければ。

wakayama18-s御橋廊下の右側には、綺麗に形が整えられた石で囲まれたスペースがあった。少し小さな石のカケラが挟まれているが、切込ハギといって問題ないか。よくみると、手前下の石には◯が2つ重なる刻印がされていることが分かる。

wakayama17-sこれは穴蔵状遺構で、何かを収納する施設だった模様。江戸初期の火災以降埋め立てられて使われていなかったとのことで、そういえば先ほどの石は後ろのほうが真っ黒だった。猛火に晒された跡ということか。

wakayama19-s2「江戸時代の遺構」「二之丸 (大奥部分)」説明板。御橋廊下の東側は二の丸になる。表・中奥・大奥に分かれていて、今は城の方に向かっているため、大奥→中奥→表という順に進んでいる。それにしてもさすがは紀州徳川家、側室が住み藩主のみが入れる大奥がこの広さ。

wakayama20-s現在の二の丸大奥跡。今は芝生公園。

wakayama25-s2奥により詳細な「大奥」説明板がある。江戸城本丸が表・中奥・大奥に3分割されたので、ここ紀州江戸藩の和歌山城二之丸もそれに倣って3つに分けたとのこと。さらに大奥も3つに分かれており、藩主の居間/寝室、女中の生活スペース、大奥役人の役所だだったという。

wakayama26-s2続いて「中奥」説明板。ちゅうおく、ではなく、なかおく、だ。いわば藩主の公邸とのこと。今で言う首相官邸 的な場所。

wakayama27-sこちらが中奥跡。こちらも今は何もなく、広場と化している。かつて建っていた中奥の礎石等は地中に保存されているのだろうか。奥に和歌山城天守が見える。

wakayama28-s2「二の丸御殿跡」説明板。ここに建っていた御殿は「紀州御殿」として明治18年に大坂城内(天守の正面)に移築された。大坂城付近の米軍の無差別爆撃も乗り越えた。しかし戦後、大坂城を接収した米軍は、昭和21年に失火を起こし焼失。さらに二之丸の周囲にあった多くの櫓や門は、明治の廃城令で全部なくなってしまったとのこと。この手の説明板を読むといつも残念な気持ちになる。せめて近隣のお寺にでも移築しておいてくれれば・・・! と思わざるを得ないが、当時の情勢を考えるとそうも言えない状況だったのだろう。

wakayama29-s二の丸中奥〜大奥の北側にあった物見櫓跡。松の木が大変な形に変形していて櫓台に登りづらい。なお訪問時は立入禁止だった。

wakayama30-s訪問時 (2013.9)、二之丸の中奥〜大奥間の一部が工事中で入れなかった。物見櫓跡の近くでこんな注意書きを発見。大奥中庭の発掘調査!奥のブルーシートのところで何か作業をしていた。何か素敵な遺構が見つかることを期待。見つかったら埋め戻さず展示してほしい。今後に期待。

wakayama31-s続いて二の丸・表。こちらは植木等が植えられ綺麗に公園化していた。

wakayama32-s「二の丸 表」説明板。江戸当時はかなりぎっしりと屋敷が建っていた模様。二の丸・表は藩の政庁とのこと。今で言う県庁舎 的な場所か。

wakayama34-s二の丸・表の隅櫓台より大手門へ繋がる虎口を見下ろす。石垣は切込ハギ(左)と打込ハギ(右)が混在している。巨大な食違い虎口(枡形虎口かも)だ。ここをまっすぐ奥へ進むと大手門。

wakayama35-s二の丸・表の向かい側には虎が伏せている像がある。左の説明板によると、和歌山城の建つ山を海から見ると猛虎が伏せているように見えるため、江戸時代は「虎伏山竹垣城」と呼ばれており、その別名にちなんで昭和34年に建てられた銅像とのこと。つまり江戸時代の遺構ではない。ちなみにこの虎は2代目で、初代(大正11年製)は何と立ち姿で、戦時中に供出されたらしい。虎伏山なのに立ち姿って… 一度見てみたい。

wakayama22-s二の丸・表から大奥・西の丸の方へ、石垣伝いに歩いてみる。向かって右側が西の丸、左側が本丸。江戸時代の紀州徳川家が有名な和歌山城だが、ここの石垣は大きさもバラバラで傾斜も緩やかな野面積み。別の時代(秀長、浅野)に積み上げられた石垣かもしれない。和歌山城は様々なタイプの石垣が混在している、いわば「石垣の百貨店」だ。

wakayama24-s角の部分は長辺短辺が交互に積み重ねられた「算木積み」となっている。この二の丸〜西の丸南側の石垣はかなりの長さに渡ってずっと続いており、実に壮観だ。

wakayama33-s切手門跡。と思われる場所だが、もう少し奥かもしれない。説明板等が無かったため不明。

続いて、このまま本丸石垣に沿って城の東側へ進み、表坂登り口から本丸へあがる。

>> 和歌山城 [2/3] へ続く。<<

訪問時期:2013年9月
撮影機器:SONY NEX-C3
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