伊勢松坂城は秀吉家臣だった蒲生氏郷公が築城した近代城郭。1584年、旧領 近江日野 6万石から伊勢12万石に出世した際、氏郷は元の城を廃して3層天守を持つ総石垣造りの平山城を建て、その地を松坂と名付けた。その後 氏郷は会津60万石に大出世、松坂城は幾つかの城主を経た後、紀州徳川家の所領となり陣屋がおかれ、維新を迎えた。天守は台風で倒壊したと伝わり、他の建造物も焼失や破棄などで城下町の米蔵しか現存していないが、広大な曲輪と野面積みの力強い高石垣が楽しめる。
<基本データ>
●名称: 松坂城 (wikipedia)
●所在: 三重県松阪市 (マップ)
●築年: 1588年 (天正16年)
●築主: 蒲生氏郷
●遺構: 高石垣、天守台、城番屋敷、米蔵
<訪問記>
近鉄松阪駅より徒歩約15分で、巨大な石垣群が見えてくる。そこが史跡 松坂城跡。松坂大輔の「まつざか」ではなく、濁らない「まつさか」が正しい。漢字は、昔は「松坂」と書いていたが今は「松阪」が正式。大阪/大坂と同じ。当ブログでは松坂城・松阪市で統一する。
中に入らなくてもこの石垣。圧倒される。駅前の観光案内所の方によると、松坂城の石垣は「高さのある野面積み」で有名とのこと。石垣の上は二の丸跡にあたる。
松坂城跡前の説明板。城内に櫓や門など建物は一切残っていないが、本丸・二の丸・三の丸・隠居丸・きたい丸 すべての曲輪が残っている。結構広い。
石碑の建つ入口より入城する。荒々しい野面積みの石垣と、曲がりくねった虎口に、期待が膨らむ。道は舗装されてしまって礎石などは残らないが、以前はどこにどのような城門が建っていたのだろうか。
ちなみに、ここは「表門跡」。石碑がひっそりと立つ。
正面には堂々たる「松阪城跡」の石碑が見えてくる。右側には「蒲生氏郷公 開府」。松阪市は毎年「氏郷まつり」を開くなど、かなりの 蒲生氏郷 推し。
「石垣注意」の看板。城内の各地にある。石垣の何をどう注意するのか書いていない苦笑看板だが、石垣が高い上に柵などがほとんど無いことから、落ちないようにという意味合いか。あるいは、意外と崩れやすいかもしれないので端っこの方を歩かないように、とかいう意味合いか。などと考えながら歩いていて落ちてしまいそうだ。
本丸の石垣。野面積みだがしっかり面が整っていて、しかもかなり高い。少し勾配もついている。築城の名手と言うと、一般的には「加藤清正 (熊本城)」、「藤堂高虎 (上野城/津城/今治城)」だが、この石垣を見ると蒲生氏郷もなかなかのものだと思う。
石垣の上にあがって、二の丸跡へ。公園にアレンジされていて、売店や野外劇場などが設置されている。市民の憩いの場。ここより上は城マニアの憩いの場。
野外屋上の手前あたりに「徳川陣屋跡」の石碑あり。紀州徳川家の所領となった松坂城は、1794年(寛政六年)にここ二の丸に徳川陣屋(二の丸御殿)を建て、役所とした。しかしその御殿も廃城後しばらくして明治10年に焼失。他の建物はその後破却されてしまう。恐らく失火がなくとも他の建物同様 御殿も破却されていたかもしれない。
二の丸中央付近には藤棚が設置されている。説明板によると、愛知県より樹齢200余年の紫藤を明治23年に株分けしたという。すでに樹齢300数十年。4月下旬に訪れたい。
藤棚の脇に、「二の丸跡」碑あり。チョット分かりづらい位置。
二の丸奥にある高台(恐らく隅櫓台だろうが碑等無し)から、城跡の南側に残る「御城番屋敷」がよく見えると聞いたので行ってみる。城番とは、その名の通り、城主に代わって「城の番」をするもののことで、特に江戸時代は紀州徳川家の所領であったことから、城代(城主の代理、大留守居とも言う)を補佐する位置づけにあたる。城主>城代>城番。その、城番が住んでいた屋敷が、松坂城下町に現存する。国重要文化財。
櫓台の上へ。奥にある石碑は、パンフの地図によると「亀井改堂翁碑」とのことだが、字がかすれすぎてて全く読めず。
櫓台の上から見下ろした御城番屋敷。中央の緑の筋とその左右の大きな屋根の建物(長屋)が屋敷群にあたる。御城番屋敷のあるあたりが、当時の三の丸になる。
櫓台の上からは裏門の虎口が見える。裏門を通るとそのまま御城番屋敷へ通じているので、後ほど参ろう。
本丸・太鼓櫓台を下から見上げる。こちらもなかなか見応えのある石垣。野面積みは一見バラバラの石をテキトーに積み上げたように見えるも、実際に400年以上も大きく崩れずに保たれているということは、様々な大きさ・形状の石をパズルのように絶妙なバランスで組み立てられているまさに職人技だと言うことが伺える。(平成に石垣の大修復は行っている)
こちらの門の向こうは本居宣長旧宅。曲輪の1つである「隠居丸跡」であり、江戸中期(18世紀)の国学者・本居宣長 (もとおり のりなが) が住んだ旧宅をこちらに移設したとのこと。旧宅に入るには400円かかるが、その支払場所が入口ではなく、なぜか旧宅の一番奥にある本居宣長記念館だという意味不明な構成になっている。この看板は、その説明をするもの。奥まで行かずに勝手に見て出てしまう/知らずに敷地内に入ってしまう人も多数だろう。門の前に人を置くか、旧宅は入場無料にすべし。
本居宣長 (もとおりのりなが) の名前を聞いたのは、中学校の社会の授業以来という私のような人のために、彼について簡単に解説。江戸時代の後半に国学者として活躍した本居宣長。代表作は、当時誰も解読できなくなっていた「古事記(こじき)」の詳細解説本。古事記は平城京の時代に記されたと言われる日本最古の歴史書で、伝承の時代(イザナギ・イザナミ等)から始まり、初代 神武天皇から第33代 推古天皇(初の女性天皇)までの天皇家の動向などを記したもの。現在 青空文庫で無料で現代訳が読めるのも、宣長先生のおかげか。読んでみると、特に伝承時代の内容は、全くのお伽話ではなく実際に当時似たような事件があって、それが文字もない時代から数百年に渡り「口頭」で伝えられる間に、伝説に変化したものと考えると結構おもしろい。ちなみにこの記念館には本居宣長が解読した古事記の写本原本(当然国重文)などが収蔵されているという。興味深いが、今日はお城を見に来たので、特に寄らない。
では松坂城の散策へ戻ろう。門の手前から右へ曲がると、本丸へと続く高い石垣に囲まれた曲がりくねった道がある。時はまだ戦国時代末期、戦いを想定した堅固な城づくりが求められていた時代という匂いがプンプンする造りだ。
道は何度も右へ左へ折れ曲がり、攻め手は苦労させられることだろう。食違い虎口と呼ばれる構造だ。当然曲がるだけではなく、両側や正面の石垣の上には土塀や櫓が置かれていて、攻めてきた敵兵を容赦なく射撃する。
この道は「中御門跡」であることが、中盤の石碑で分かる。パンフによると、中御門は明治14年まで現存していたが、もはや不要とのことで表門・裏門などと一緒に破却されたらしい。残念すぎる。明治まで残っていたのなら復元に必要な図面や古写真等もありそうなものだが、松阪市では完全復元に必要な完璧な史料が揃わない限り建造物の復元は行わない方針のため、松坂城址は画期的な史料が出てこない限りこのままだろう。
中御門跡を通って本丸へ入ってすぐの櫓台は、太鼓櫓跡。写真中央奥に小さな石碑が建っている。櫓跡ごとに細かく石碑で説明してくれているのはありがたい。
本丸跡。観光案内所の方の説明によると、松坂城の本丸は上下の2つある珍しい構成になっており、こちらは下の本丸となる。下本丸から、きたい丸を通って、上本丸へと続く。(下本丸から上本丸へ直接行く石段もある)
眺めの良い高台へ上がる。こちらは月見櫓跡。
月見櫓跡には石碑のほか、昭和初期の小説家「梶井基次郎」の碑が建っていた。代表作の1つ「城のある街にて」がここ松阪を舞台とした話からとのこと。
月見櫓台からの眺望。天気が良く、街の向こうに伊勢湾が見える。築城から400年以上経ってもその名に恥じない眺望は、さすがは月見櫓。
月見櫓から表門方面を見下ろす。高い。柵などが一切ないので結構怖い。
そのまま塀伝いに北に歩いて行き、遠見櫓跡へ。奥の建物(屋根だけ写っている)は歴史民俗資料館。
遠見櫓跡から、向かいの鐘の櫓跡を見る。複雑な構造の城だということが体感できる。
ぐるっと回って、鐘の櫓跡へ登ってみる。
鐘の櫓跡へ。歴史民俗資料館がよく見える。時間の都合もあって資料館は未訪問。いずれ松坂城跡をまるっと全部見て回って完全版を書きたい。
そのまま北へ進み、松坂城北端の櫓跡である藤見櫓跡へ。足元に櫓の礎石と思われる石が等間隔に並んでいる。
>> 松坂城 [2/2] へ続く。<<
訪問時期:2013年9月
撮影機器:SONY NEX-C3
– – – – – – – –
ブログ人気投票参加中. いつも投票アリガトウ(^-^)
投票するのも、順位を見るのも、上↑のアイコンを押してね!
ページの一番上に戻る