鳥羽城 : 戦国最強の水軍大将とも言われる九鬼嘉隆が築いた海城跡。

鳥羽城 (とばじょう) は、信長・秀吉の元で九鬼水軍を率いて各地で活躍した九鬼嘉隆 (くきよしたか) が、秀吉家臣時代に海に突き出た標高40mの小丘に築いた近代城郭。水軍の運用を重視するため、海側に大手門があったという「海城」として名高い。三重の天守が上げられている絵図が残るも、天守台は大きく削平されていて礎石などの遺構は一切残らない。城は鳥羽藩の藩庁として長らく利用されたが、明治を迎え建物は破却された。跡地は小学校となり本丸跡は運動場として整備され、更に多くの遺構が失われた。現在は小学校は移転され、小高い丘に現存する壮大な石垣をメインとする城跡公園として整備されている。

<基本データ>
●名称: 鳥羽城 (Wikipedia)
●所在: 三重県鳥羽市 (地図)
●築城: 1594年 (文禄三年)
●築主: 九鬼嘉隆
●遺構: 石垣、曲輪
●関連: 鳥羽市HP

訪問時期:2013年9月


<訪問記>

toba02-s鳥羽城跡は近鉄志摩線・中之郷駅のすぐ前にあるが、近鉄鳥羽駅からも十分歩いて行ける距離。鳥羽駅から線路沿いに歩いて行くと、随所に「城山公園」までの距離が表示されている。といっても観光名所としてではなく城跡(本丸)が高台になるので津波の避難場所としての案内板のようだ。

toba03-sしばらく歩いていると、高台の上に「九鬼水軍の海城」という青い看板が見えてくる。あの上が城山公園のようだ。なお城山公園とは、鳥羽城跡の一部(縄張図によると太鼓櫓跡の広場)のこと。

toba04-s鳥羽駅方面から歩いて行くと城山公園の裏側に到達する。本来はここから城山公園に登れるようだが、訪問時 (2013.9) は工事中で登れず。石段を新調しているようだった。今回は少し引き返して三の丸広場方面(線路側の入口)へ向かう。

toba01-s三の丸広場へ。九鬼氏の家紋旗と積み直した感がすごい石垣、そしてその奥の段々の石垣が目を引く。

toba06-sこちらが鳥羽城 三の丸広場。ぱっと見ここが当時の大手門のような気になるが、旧 三ノ丸。古絵図によると本丸とは今程の高低差が無いようにも見えるので、ここは廃城後に造船所が造られた関係でかなり削られてしまったのかもしれない。ちなみに当時の大手門は現在の鳥羽水族館のあたりになる。

toba05-s大きく掲げられている旗の紋は「左三つ巴紋」といい九鬼嘉隆の息子・守隆の代から使用していた九鬼家家紋と言われる。ちなみに嘉隆の頃の家紋は七曜紋であったと言われている。

toba07-s旗の裏側には鳥羽城跡・九鬼家に関する説明板が設置されている。まずは鳥羽城跡。現在は埋め立てられているが、当時は城の周りは西側を除いて海だったようだ。

toba-koezu鳥羽城 古絵図部分をアップ。現在と地形が変わりすぎているが、現在は本丸の北側にあった三ノ丸跡地に居る。海が青く塗られていないので分かりづらいが、南側には青く塗られた沼があったようで、川・海・沼に四方を囲まれた、海に突き出た小島の上に築かれた名実ともの「海城」だったようだ。なお三ノ丸と本丸の間には帯曲輪的な場所を含めて三段の石垣が描かれていることから、三ノ丸広場名物の段々の石垣は城の遺構ではない(後で作った模擬石垣)であることも読み取れる。なお三ノ丸広場からは、本丸ではなく、右側(西)に描かれている高台の侍屋敷跡へと通じ、そこから横移動で本丸へと向かう(現在のルートの話)。

toba08-s「日ノ本最強の水軍」として信長・秀吉に仕え九鬼家の発展に貢献した九鬼嘉隆に関する説明板。なお文中の答志島は鳥羽の北東にある大きな島。

toba09-s続いて鳥羽城の歴史。九鬼嘉隆が鳥羽を九鬼家の拠点とすることを決め、最初にここに城を建てたのが始まり。しかしこの三の丸など現在の鳥羽城跡の形まで拡張したのは、九鬼家の後に鳥羽に入った内藤家。

toba10-s鳥羽藩主の変遷。鳥羽=九鬼、というイメージがあるが、九鬼家が鳥羽を治めていたのは戦国時代〜江戸初期の40年間ほどで、その後は次々に藩主が変わっていったようだ。

toba11-s高台の上にはこちらの階段から上がる事ができる。周囲の状況を見ても公園化に伴い新設された階段か。

toba12-s山側を見ると、多段に積み重なった独特の石垣が見えるが、当時の絵図を見る限りここ(本丸と三ノ丸の間)にこのような目立つ段々石垣は描かれていないので、明治以降の模擬石垣だ。造船所建設のため三ノ丸を削りとって低くしてしまったため、石垣で土留めにしたか、城跡公園らしく見せるために作ったナンチャッテ城壁だろう。

toba13-s階段の途中には曲輪があった。遺構なのか、どうなのか、もうわからない。

toba14-sまるで棚田のような石垣。高石垣が技術的に建てられなかった時代、高い石垣を築くためにこうして段々の石垣を築いていた。しかしこの段々の石垣は前述のとおり擬似。本丸外周で見られる他の本物の石垣とも雰囲気が違いすぎている。

toba15-s階段をあがると、芝生の広場に出る。ここは元 三ノ丸にあたる。

toba16-s城山児童公園という石碑が建っていた。駅前の看板にあった城山公園とはこの広場を指す。地面も平らに整えられており、眺めもよい。

toba17-s公園の隅には四等三角点があった(看板前の+の石柱)。淀城跡にも三角点があったのを思い出す。なお写真左に積んである石は、裏側の石段工事用のもの(訪問時工事中だったため)。

toba18-s城山公園から奥に進むと本丸への道が続く。このあたり(本丸付近)の石垣は九鬼氏時代の現存とのこと。1500年代末期に築かれたものか。

toba19-s本丸の石垣。様々な大きさの石をそのまま積み上げた野面積みで、九鬼嘉隆の時代の工法である。緩やかだが直線的に積み上げられた隅石。

toba20-s本丸跡。以前は小学校(本丸の南側に旧校舎がある)の運動場だったとのことで、古い遊具などがそのまま残っていた。今は公園として特に整備しているわけではないのか、地面もデコボコ、周囲の金網も凹みまくりだった。縄張図によると、天守は中央付近にあったとのこと。平成23年(2011)に行われた発掘調査では、この下から本丸御殿や天守台と思われる石垣の跡が出てきたとか。残念ながら全て埋め戻されてしまったようだ。

toba21-s中央付近には鳥羽城 本丸跡の看板がかかっていた。天守の他に本丸御殿が建っていたことが発掘調査により判明しており、そのときの写真も掲載されている。このままうまく展示して見られるようにして頂きたかった。明治初期の開発や小学校の建設等で、埋めるだけでなく削ったり均したりされていることから、多くの遺構が残念ながら失われてしまったようだ。

toba22-s「井戸場所」という(倒れてしまっているが)立て看板を発見。抜けているので、そもそもここではないのかもしれない。発掘調査では岩盤を素彫りした井戸が出てきており、それは蓋をして埋め戻したと報告書にあるので、その場所を示す看板だったのだろうが、場所が分からない。

toba23-s本丸跡の南側には旧鳥羽小学校の校舎がそのまま残っていた。H21廃校。現在は有形文化財とのこと。

toba24-s小学校横にも立派な荒々しい石垣が。なお当時はこのあたりは月見櫓が建っていたが、小学校建設のため明治初期にかなり掘削されていると思われるため、これが櫓台の石垣かどうかはわからない。

toba25-s階段の下まで降りてくると、鳥羽城跡と鳥羽市立鳥羽小学校 という説明板があった。小学校の校歌にも鳥羽城を思い浮かばせるワードが含まれているのは興味深い。なおこの説明板が造られた昭和40年はまだここに鳥羽小学校があった頃なので、現在の移転済み鳥羽小学校の校歌がどうなっているかは不明(学校は中之郷から池の浦に移転)。

toba26-s鳥羽駅付近の海沿い(戸田家敷地内)に、九鬼嘉隆が軍艦の纜(ともづな)を繋いだと言い伝えられる巨木があった。

toba27-sタブの木の言い伝えに関する説明板。樹齢約500年ということは、400数十年前に九鬼嘉隆が軍艦をこのタブの木につないだときはまだ樹齢数十年ということで、大きな船を留め置くには少し細いような気がしないでもない。

信長・秀吉らに重用され、歴史の表舞台に多く登場する九鬼嘉隆率いる九鬼水軍の城、鳥羽城。開発のため現存する石垣以外の遺構はほぼ失われてしまい、更に模擬設備が多くどれが本当の遺構か分かりづらくなっている残念な城跡だが、近年 歴史の大切さを後世に伝えようと発掘調査や整備事業が進んでいるのは大切なこと。見栄えを良くするためにナンチャッテ石垣などを新設する方向ではなく、当時から残る貴重な文化遺産を活かした城跡公園づくりをこれからの鳥羽城に期待します。

訪問時期:2013年9月
撮影機器:SONY NEX-C3
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