伊賀上野城は家康が大坂方に対抗するため築城の名手・藤堂高虎を伊賀国に呼び、もともと当地にあった筒井氏による城を大幅改修して建築された。高さ30mを超える高石垣が有名。天守は5層大天守を建築中に暴風雨で倒壊、その後 大坂の役で豊臣家が滅亡したため再建されなかった。現在の3層天守は昭和初期に地元の名士が私財で築いたもので、外観等は高虎時代(に建てようとしたもの)とは全く異なる、いわゆる”模擬天守”。
<基本データ>
●名称: 伊賀上野城 (Wikipedia)
●所在: 三重県伊賀市(マップ)
●築城: 天正13年(1585) / 慶長11年(1611)
●築主: 筒井定次 / 藤堂高虎
●遺構: 高石垣、内堀、天守台、旧藩校
<訪問記>
伊賀鉄道・伊賀市駅から歩いて5分ほどで上野城へ。伊賀鉄道は電車が30分に1本程度なので帰りの時間を意識して城めぐりするのが吉。写真は城跡のある上野公園への道中にある「白凰門」(模擬櫓門)。
白凰門を超えると右手に小学校、左手に高校がある。小学校は木造で塀も漆喰など歴史がある建物風になっている。
上野公園の入口にある案内図。天守のある本丸広場を中心に、東部には高虎が入国する前にあった筒井氏時代の城跡、公園北部には忍者屋敷や松尾芭蕉関連の建物がある。
資料によるとこのあたりが大手門跡なのだが特に門の礎石や説明板等は無かった。
大手門横の石垣。石垣の前は高校の敷地内。訪問時、授業をサボる高校生が日陰で涼んでいた。絶好のサボりスポットというわけか。きっと彼女らは石垣を見ながら築城の名手・藤堂高虎を想い…な訳ないか。
そのまま公園へ入ると「上野城跡」の石碑と、伊賀上野城に関する説明石碑が建つ。左の道へ進めば天守のある広場へ。
説明板。筒井氏時代にもさらっと触れ、その後に入国した藤堂高虎が今に通じる城郭を造ったことを説明している。
左の道を進む。道が右に曲がり、模擬天守が見えてくる。真っ直ぐ行くと高石垣。まずは名物・高石垣から見ていこう。
高石垣の案内板発見。「日本一・二の高さで有名な」という書き方にニヤリ。ちなみに日本一の高さの石垣は、皮肉にも 徳川大坂城。
高さ30mを誇る高石垣の上から見下ろす。たっ高い!転落防止の柵など一切無いため吸い込まれそうな気持ちになる。下が堀とは言え石垣に傾斜があるので着水までに何度か石にぶつかること必至。良い写真を撮ろうと身を乗り出し過ぎて落ちないように要注意。いままで落ちた人もいるだろうなぁ…
高石垣を別角度より。加藤清正公の熊本城の石垣と比べ、石垣が直線的に積み上げられているのが藤堂高虎流。草ぼうぼうなのが残念。
更に別角度より。向こう側から見ると反り立つ巨大な石垣に圧倒されそうだが、かなり樹木が茂っているので果たして見えるかどうか。
堀と高石垣は城跡の西側と北側にある。こちらは北側。草ぼうぼう度合いがすごい。
石垣のヘリには築城時に切り出した石が並んでいる。矢穴跡が残るので当時の石と思われる。石垣の上には築城当時は櫓が建っていたので、これは櫓台の石などを公園整備時に再配置したものか。
これらの石はベンチ代わりにもなる。右側の石は石垣の際。
高石垣を北側までぐるっと見て回って、模擬天守へ。天守台は藤堂高虎公が築いたものをそのまま使っている。斜面の上に天守台を組んでいたことに驚き。
模擬天守の東側へ回ると、大天守・小天守のコンビがお出迎え。美しい白壁が青空に映える。なお昭和10年だが、なんと起案者のコダワリでコンクリートではなくフル木造とのこと。
少し角度を変えて。大天守と小天守の間に見える薬医門から入城する。
城の前には沿革 説明板。高虎が普請した5層の天守が完成を見ずに倒壊したことがいつ読んでも悔やまれる。なお今建っている天守の正式名称は「伊賀文化産業城」とのこと。
ではさっそく入城。
矢穴跡も残る結構整えられた形の石たちが荒々しく積んである。切りそろえてはあるが、バラバラの向きで積み上げられている。「打込みはぎ」と呼ばれる手法。
薬医門より入城。奥のカウンターにて入場料を支払う。1人500円也。まずは入って左の小天守から見学。
小天守にある「忍び井戸」。説明板によると、高虎は家康より大坂城攻略に失敗した場合は上野城に籠城する旨を伝えられ、水に困らぬよう小天守に50間(約90m)の深井戸を掘り、更に横穴を四方に掘って万一の際の抜け穴とし城下町と通じていたという。今でも繋がっているのかな?
小天守内に掲示してあった1715年段階の上野城周辺地図。
小天守内にあった「高虎の5層天守」と「昭和復興3層天守」のペーパークラフト。測量図面を元にした超リアルなお城ペーパークラフトで有名なファセット社製(ファセット社Web)。うちにも幾つかあります。こうして見比べると高虎時代と模擬天守は全く違う事がわかる。なぜこんなことをしたのか。また5層用の天守台に3層を建てたため、結構 天守台の上にスペースがあいていることも分かる。係員の人に聞くと空きスペースには現在倉庫が建っているとのことだ。
高虎公のお城と言えば「破風のない天守」で、丹波亀山城(古写真あり)、伊予今治城(前述の亀山に移したという説もある)などが同じような破風無しノッペラボウ天守だったとする史料が残る。なお模擬天守のペーパークラフトを見て思ったのは、伊予宇和島城の天守(現存)に雰囲気が似ているなあということ。なるほど高虎繋がりで似せたのか、と一瞬思ったが、よく考えると宇和島城の現存天守は高虎時代のものではなく江戸期の伊達家によるもの(高虎時代は望楼型)なので、予想は外れた。
入城する際に通った薬医門の瓦に、藤堂高虎の家紋「藤堂蔦(つた)」を発見。秀吉から桐紋の使用を許可された高虎だったが恐れ多いと桐紋の上部の草を取ってこの家紋とした、と言われている。なお建物は昭和の再建、この鬼瓦は当時の現存物を使ったのか、昭和に作ったものなのかは、係の方に聞き忘れた。
天守の入口横にある緑色の鯱。横にある説明板は上野城に関する説明で、このシャチホコが何なのかは不明。
大天守入口横にある説明板。今の模擬天守は「伊賀文化産業城」が正式名称のようだ。伊賀上野出身の政治家が、所蔵する古美術品を売却して費用捻出して建築したとか。
大天守内へ入ると、藤堂高虎公がお出迎え。高虎公の後ろにある鎧3領は、おそらく2011年に開催された400周年記念時の試着用のもの(参考:伊賀ポータルより)。
筒井氏時代の上野城の旧天守に関する考察パネル。筒井氏から藤堂氏に城主が変わり、城を作り変えるにあたり、本丸にあった筒井氏の御殿や三層櫓(天守)はそのまま再利用した、とある。少なくとも寛永期(江戸期初頭)にはまだ残っていた。記録によると寛永十年(1633)8月の大風雨で(旧)天守は倒壊したようだ。ややこしいことに筒井時代の天守と高虎が建てようとして崩壊した天守の2つの天守が史料上ではどちらも「天守」と書かれている。
続いて藤堂高虎の上野城に関するパネル。筒井氏時代の上野城を西に拡張し高石垣を作り大手門や御殿、多聞櫓などを建築した。家康からの信任が厚かった高虎は、伊賀十万石、伊勢十万石、伊予二万石あわせて二十二万石の大大名となった。来るべき大坂豊臣家との戦いに備え、元々は「大坂を守るための筒井上野城」を、「大坂を攻めるための藤堂上野城」に改造した。大手も大坂から見て逆にあたる南側とした。
模擬天守1Fには藤堂氏にまつわる逸品が展示されている。こちらは有名な「変わり兜」の1つ、高虎公が太閤秀吉より拝領したという「黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬり とうかんなり かぶと)」。唐冠形とは中国の官僚がかぶっていたような冠をかたどったものという意味合いで、普通はこれぐらいなのだが、高虎verは横の耳が超巨大に張り出している。説明板によると、なんと実際に高虎の一族の者がこれをかぶって大阪夏の陣に出陣したが討死。それは手柄の討死と讃えられ、家宝として代々藤堂家に伝わったという。
模擬天守内には藤堂家に伝わる具足(甲冑)も多く展示されている。こちらは「八幡大菩薩」前立の兜。漢字の前立、かっこいい。信長の小姓・森蘭丸所有とされる兜の前立は「南無阿弥陀佛」と書かれていた。
高虎の家来・島川某が大阪冬・夏の陣に出陣した際に着用した装具(当世具足)が、島川家に代々伝わっている。実戦用装具が現存するのは非常に珍しいらしい。上野市に寄贈された具足、刀剣一式が展示されている。
島川某の刀剣。奥二本が太刀(あるいは打刀)で手前二本が脇差か。実際にこれを持って戦っていたのか!
島川氏の当世具足も展示。左側の赤い鎧が島川某が大阪の役で実際に着用したと伝わる鎧兜。
変わって、こちらは上野城 東大手門の棟瓦。藤堂高虎の家紋・藤堂蔦が、かなり浮き上がって造られている。
伊賀は松尾芭蕉の生まれの地とのことで、模擬天守を建てた川崎氏も芭蕉ゆかりの品を多く集めていたという。それらの一部が展示されている。
模擬天守3F(最上階)は展望台になっている。また天井は格天井になっていて、築城を祝う色紙が嵌めこまれている。
模擬天守3Fからの景色。元々周りより高い丘の上に建てているので非常に見晴らしがよく伊賀の街を一望できる。
模擬天守1Fに戻ると、藤堂高虎公の裏側にゆるキャラが居たことに気づく。にんた君&しのぶチャン。本職はお城ではなく伊賀上野NINJAフェスタのPRらしい。
さて模擬天守を出て東へ向かうと、筒井氏時代の城跡が一部残る。上野城絵図と見比べると階段の位置が異なるので石垣は復興時に積み直したものか。
石垣の上に登ると、柴小屋や米蔵などの跡地を指す看板が建っていた。
筒井氏時代の城跡を更に東に進むと、坂を降りる形になって城跡公園の北側へ行く事ができる。ここには忍者屋敷や芭蕉ゆかりの建物などがある。
こちらが芭蕉ゆかりの建物「俳聖殿」。ゆかりと言っても芭蕉が建てた等ではなく、芭蕉生誕300年を記念して昭和17年に建てられたという。芭蕉の旅姿を建築に表そうとした外観とのこと。お城とは関係ないのでチラッと。
殿内には立ち入ることは出来ないが木戸越しに中を覗くことはできる。中には等身大伊賀焼の芭蕉像が鎮座する。俳聖殿、芭蕉像ともに、上野城の復興天守(伊賀文化産業城)を建造した川崎氏によるもの。
俳聖殿を超えて西へ進むと堀の外側へと通じる。ここから高石垣を外から見ることができるのだが、訪問時は木々が生い茂っていてちゃんと見ることは出来なかった。残念。
少し南へ下がり木々の間から一枚。たまたま写真左上に人影が写ったので、高石垣の異様な高さを感じることが出来る。
高石垣 南西端。この南側は高校の敷地内になる。おそらく高校内から見ると綺麗に高石垣を見ることが出来るだろう。残念。
なお訪問時(2013年)はこんな感じだったが、現在は高石垣を見るために堀際まで降りられるような場所が何箇所が作られている、という情報もある。再訪した際は落ちないように是非高石垣を下から見上げてみたい。
続いて、城下町に残るゆかり探しへ。
城の南側にある藩校跡へ。崇廣堂。門や講堂が現存しているという。こちらは藩校の御成門。屋根の下に藤堂蔦が見える。
更に南下し、線路を超えたあたりが「西大手」地域。駅の名前も西大手駅。このあたりに築城当時、西大手門があった。門跡を探してみると、石碑のみ発見。あたりは完全に住宅街になっていた。石碑が建てられているだけでも有難いと思うしかないか。
おまけ1:伊賀へ来たらお城だけでなく「伊賀牛」もお忘れなく。但馬牛から生まれた牝牛の処女牛のみを用いるという伊賀牛、かなり柔らかいのが特徴。こちらは伊賀市駅から少し西へ行ったところにある名店「すきやき伊藤」さんの「伊賀牛どん」。870円也。
おまけ2:伊賀鉄道の名物「忍者列車」。青・ピンク・緑があるらしい。なんと、銀河鉄道999などでお馴染みの「松本零士」氏による絵とのこと。目が怖い!ちなみに今はラッピングだが、昔の車両は直接車体にペイントされており、そちらの方は更に眼力が強くて怖さも倍増。
藤堂高虎公が大坂の押さえとして築いた上野城。今は模擬天守が建てられてはいるが、高虎渾身の30m級 高石垣は水堀と共に健在。天守内の藤堂氏ゆかりの品々が惜しげも無く展示されているのも嬉しい。高石垣を覆う草が枯れた時期に、その高さを体感しに、再訪したい場所だ。
訪問時期:2013年9月
撮影機器:SONY NEX-C3
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