勝龍寺城 : 模擬建造物が立ち並び面影が失われた、明智一族ゆかりの地。

勝龍寺城 (しょうりゅうじ じょう) は、室町期から戦国期にかけて使われた城郭で、元々は守護大名の郡代役所だった建物が時代に応じて要塞化した例とされる。有名なエピソードとして、細川忠興とガラシャ(明智光秀の娘)が結婚式を挙げた場所、明智軍vs秀吉軍の山崎合戦で敗れた明智光秀一行が退却した場所、などがある。戦国期までは三好三人衆の所領だったが織田軍の侵攻後、細川藤孝(後の幽斎)の居城となり、二重の堀や枡形虎口などを持つ堅固な城郭に改めた。江戸時代初期に廃城となる。主郭跡地は公園となり、模擬櫓や模擬城門などのお城風建築物が並ぶ。石垣も再建物、当時がこうだったかは不明。当時の遺構としては、水堀や土塁、少し離れた場所に残る堀跡など。

<基本データ>
●名称: 勝龍寺城 (Wikipedia)
●所在: 京都府長岡京市 (マップ)
●築城: 暦応二年 (1339)
●築主: 細川頼春
●遺構: 水堀、曲輪、石垣跡 等
●資料: 長岡京市HP


<訪問記>

shoryuji01-sJR長岡京駅で降りて東口を出ると、村田製作所本社ビルの前の広場に「江戸時代の勝龍寺城本丸跡」石碑が立つ。石碑には「この付近は、江戸時代初めに 永井直清 が16年間営んだ城の本丸があったところで神足館とも呼ばれる」と書いてある。山崎の戦いで落城した勝龍寺城は、江戸時代になった後の1633年に永井直清が入城し幕府の命で城の北に屋敷を建てたと言われており、それがこのあたりということだろう。

shoryuji02-s2上の本丸跡石碑の南側には喫煙スペースが有り、その手前に「勝龍寺城公園はこちら」石柱を発見。石柱のタケノコは長岡京市がタケノコの名産地のため。

shoryuji03-s長岡京駅から勝龍寺城公園へ向かうちょうど中間あたりにある神足神社(こうたりじんじゃ)横には、勝龍寺城の土塁および空堀の跡が今も残る。数少ない勝龍寺城の遺構なので、是非見ていこう。北側にある神足公園から入ると見つけやすい。

shoryuji04-s神足神社脇に残る勝龍寺城の土塁と空堀 (注: 2013.8時点の姿)。約6mの高さの土塁および空堀が発掘されている。なお立入禁止の看板には「公園予定地」と書いてあった。土塁や空堀の立体感を活かした公園になってくれることを祈る。[追記] その後 この堀跡も公園として整備が行われ 激変したと聞いていますが、未訪。

shoryuji05-s土塁跡から南へ進むと視界が開け、堀に囲まれた勝龍寺城公園が見えてくる。なお建造物は石垣も含めすべて模擬。

shoryuji06-s城跡公園は三方を堀に囲まれている。正門は南側にあるので、ぐるっと回って入城する。

shoryuji07-s2城跡の前には、このようなプレートで勝龍寺城の史跡紹介や周辺(長岡京市内だけだが)の寺院仏閣などの歴史スポットの紹介などがされている。公園内にも逐次説明板が立っており、史跡ファンにとってはありがたい。

shoryuji08-s城公園の南東側へ。鳩がたくさん居た。近寄っても逃げなかったので激写。写ってないが城跡の塀の軒下にもたくさん止まっていた。

shoryuji09-s城の南側へ回ると、お城風の建物が見えてくる。管理棟 兼 資料展示室。遠くから見るとそれっぽいが、勝龍寺城の歴史とは何の関係もない、いわゆる模擬建造物。手前の橋が城公園の正面入口となる。

shoryuji10-s勝龍寺城公園 入口。入場無料。発掘調査により虎口は枡形であったことが判明したためそのように復興されている。

shoryuji11-s勝龍寺城公園が日本の歴史公園百選に選ばれました、という石碑。ちなみに百選という名前だが実際は250もの公園が選ばれているというオチ。

shoryuji12-s勝龍寺城公園の入口にあたる南門。一見いい雰囲気だが、光秀やガラシャらとは関係のない、模擬建造物。勝龍寺城跡(城公園)にある建造物はほぼ史実とは関係のない、見た目だけの建物。

shoryuji13-s2南門前に立つ本丸跡の説明板。建物は適当だが、こういう情報をちゃんと発信してくれているのは素晴らしい。発掘調査時の写真や説明が書かれている。当時は堀が幅15mもあり、5mの高さの土塁が築かれていたという。堀や枡形では石垣跡や礎石などが見つかった、とあるが、それらがこの模擬建造物群で覆われて見えなくなってしまっているのが、実に残念。

shoryuji14-s入口の前には「明智光秀公 三女 玉 お輿入れの城」の石碑が立つ。玉とは「細川ガラシャ」のこと。長岡京市は細川ガラシャゆかりの街として毎年「長岡京ガラシャ祭」を開催するなど、かなりのガラシャ推しだ。

shoryuji16-s南門の西側にはもう1つの門があり、冠木門まで造られているが、細川家居城時の想定図にはこの門は存在しない。元ここにあった土塁や堀等の遺構を潰して造られた、模擬入口。

shoryuji18-s反対側の北側には北門跡がある。発掘調査の結果、ここも石垣で囲まれた枡形虎口となっており、当時は立派な門が建てられていたという。

shoryuji19-s北門跡。発掘調査中の写真を見ると石垣で囲まれた枡形虎口が見つかっているが、この石垣が発掘調査で出てきた石垣であるかどうかは不明。

shoryuji17-s発掘調査により堀を囲む石垣跡から石仏や五輪塔などが多数出土したため、北門跡前に奉納されている。発掘された石垣跡から石仏等を取り出してここに並べているということは、先ほどの北門跡の石垣も恐らく発掘されて出てきたものではなく、それっぽく現在の石で積み上げた復元石垣と想像される。

shoryuji20-s本丸の西側には「沼田丸」と呼ばれるエリアがあり、そこへ本丸からこの土塁を超えて渡る事ができる構造になっていたことが発掘調査にて判明したとのこと。土塁には今も登ることができるが、沼田丸側へは渡れない。沼田丸は現在公園となっている(後ほど訪問)。

shoryuji21-s土塁への登り道。登れるように整備されている。

shoryuji22-s土塁の上(南端)から見下ろした水堀。結構な高さがある。

shoryuji36-s本丸内は庭園となっており、発掘にて出土した井戸跡や、各種遺構の説明板が並ぶ。

shoryuji37-sお城の遺構としては模擬建造物となる、管理棟。1Fは各種ポスターやお城のジオラマなどの展示、2Fは関連する説明パネルや発掘調査による出土物の展示コーナーとなっている。無料なので訪問時は見ていこう。

shoryuji23-sまずは庭園内へ。「ガラシャおもかげの水」という石碑があるが、歴史的な何かではなく、ガラシャがこのあたりで夫と過ごしたであろう歴史のロマンにちなんで名づけた「地下水100%の水道水」とのこと。がっかり。

shoryuji25-s地下水100%の水道水の向かい側には、そのガラシャと夫の細川忠興の像が並ぶ。勝龍寺城公園の写真スポットNo.1。

shoryuji26-s「東辺土塁と多聞櫓」説明板と、奥の土塁・模擬土塀。発掘調査により、東側の土塁上に幅4mの2列の石垣が見つかったとのことで、隅櫓間には塀ではなく多聞櫓(長屋風の建造物)があったと推定されている。ただし何故か復元されているのは土塀。

shoryuji27-s「多聞櫓への階段」説明板。このあたりに多聞櫓へ上がる石階段の跡が見つかったとのことだが、埋めてしまったようで、このあたりがどのあたりか分からない。ただ当時は石段がないと上がれないほど土塁が高かったということが伺える。

shoryuji28-s土塁へ上がってみる。当時は多聞櫓だったのでこんな景色は見られなかった。奥に見えるのは模擬隅櫓。

shoryuji29-s復興された模擬隅櫓。ここにかつて櫓があったようだが、見た目がどうだったか分からない(史料がない)ので想像して建てましたという建物。今は休憩スペースとなっているようだ。窓の板ははめ殺しになっていて堀を見ることはできなかった。少なくとも光秀やガラシャの時代はこんな真っ白な建物ではなかっただろう。ガラシャ推しだけど、城内の建物は江戸期を想定した模擬建造物という組み合わせ。うーん。

shoryuji30-s土塁の上から見下ろした勝龍寺城跡。結構広い。かつてここにお城がありました、と市民に広く伝えるため、時代考証などは二の次で、今の人が思うお城っぽいイメージの建物をいっぱい建てました、ということだろうか。などと思いながら眺望を見る。昭和中期頃は模擬天守ブームだったので事情はわかるが、ここが造られたのは平成になってから。うーん。

shoryuji32-s本丸跡中央付近には井戸が発掘されている。しかし外観はこのとおり。格子の中には金網がはってあり、水があるかどうかはわからなかった。

shoryuji31-s井戸跡の説明板。発掘調査中にもこんこんと水が湧いていたという。

shoryuji33-s管理棟へ入ってみる。訪問時なんと空調故障で、中はかなり蒸し暑く、すぐに撤退。2Fの出土品展示スペースは撮影NGで、写真も無し。

shoryuji34-s管理棟1Fは宣伝ポスターなど。細川忠興・ガラシャ夫婦、明智光秀などの大河ドラマ化を!というポスターが貼ってあった。福知山城でも見たような気がする。

shoryuji35-s管理棟で配布していた勝龍寺城パンフレット。細川氏居城時代の想定図や発掘調査時のカラー写真などが載っていてなかなか興味深い。必見。ゴテゴテ建物を建てず、発掘したときの姿が分かるような整備の仕方をして欲しかった。

shoryuji_park01-s城址公園の西側(旧・沼田丸)は芝生公園および駐車場になっている。こちらにも多少ながら遺構が残っている。

shoryuji_park02-s2「沼田丸跡」説明板。土塁と堀で囲まれた長方形の曲輪で、昭和30年代まで堀には水があったという。また沼田はガラシャの夫・忠興の父である細川藤孝の妻の旧姓であり、その一族が住んでいたと思われるとのこと。

shoryuji_park04-sまた本丸同様、沼田丸にも井戸跡が発掘されていた。外観はまたコンクリートのこれ。構造は本丸と同じとのこと。横に地下水100%ガラシャおもかげの水もあり。

shoryuji_park05-s沼田丸と本丸の間には堀と帯曲輪(細長いエリア)があった。「北辺の堀と帯曲輪」説明板。おそらくこの看板の裏がその堀跡だと思われるが…

shoryuji_park06-s沼田丸の堀跡。写真右側(本丸側)の草ぼうぼうの場所が帯曲輪か。

shoryuji_temple01-s城址公園を出て南へ5分ほど歩くと勝龍寺がある。もともとこのお寺があり、城を建てた際にその縄張りに勝龍寺も含めたことから勝龍寺城となったのだろうか。

shoryuji_temple02-s806年、空海が開基。山崎の戦いで兵火により焼失したという。

shoryuji_temple03-s勝龍寺の説明板に書いてあった鐘はこちら。初代は大阪の役の際に持ち去られ他寺に渡り、2代目は戦争で供出、これが3代目とのこと。

shoryuji_temple04-sなお敷地内には春日神社も鎮座している。個人的には異国の宗教である仏教(寺)よりも日本古来の宗教である神道(神社)のほうが好きなのだが、戦国時代には寺が要塞化して城となったり一向宗(本願寺)などの台頭もあり、歴史の観点から寺めぐりも外せないところ。

shoryuji38-s勝龍寺を出て東へ向かっていて偶然見つけた「勝龍寺城大門橋」の石碑。門柱も立っている。

shoryuji39-s説明板によると、細川藤孝が城主の際の勝龍寺城の「惣構」拡張工事にてこの地に「大手門」を築き、その大手門にかかる橋を大門橋と呼んだことから、そのシンボルとしてこの地に建立したそうだ。遺跡ではなかったが、本丸の位置を考えると当時の勝龍寺城はかなり広かったことがわかる。

模擬建造物が建ち並び当時の雰囲気は殆ど無い勝龍寺城跡。だがここにかつて立派なお城があった(姿形はともかく)ということをプロモーションするため、こういう整備の仕方をしたのだろうと解釈した。明智、細川、彼らが活躍した頃の勝龍寺城の惣構の広さを歩いてみて感じるのも良い。近隣の淀城訪問の際には、近くなので寄ってみても良い、そんな歴史スポットだ。

訪問時期:2013年8月
撮影機器:SONY NEX-C3
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